眼鏡をかけたまま寝てしまったらしい、鏡を見ると片方のこめかみに縁の跡が赤く付いている。
サイドテーブルには積み重なった新聞、古い日付のものから順に並べてある。ゆうべ寝る前に一通り目を通しておいたが何も手がかりがなかった。今日は街のライブラリへ行こうか、そう思い体を捩った拍子に薄い茶の髪の毛が指先に触れた。
反射的に一度動作を止め、相手を起こさないようにベッドを抜ける。
「クウ、か」
最近会う回数は減ったが、まだたまにはあらわれる。
口ではしっかりしたことを云えるようでも夜になると人恋しいのか、 クウは時々俺の隣で眠る。寒い日は一人用のベッドでもぬくもってちょうど良いが、朝になってロクに戻っていれば最悪だ。
とりわけ今朝は嫌な予感がする。
ひとまずここはばれないうちに退出してしまうのが妥当だ。
と目論んだものの。
最高に不機嫌な声に呼び止められる。
「……おい、変質者。どうして僕がここで寝てる。説明してもらおうか」
あのね。
さすがに頭にきて振り返った。
「お前、自分が間違ってるとはどうして思わないわけ。たぶんクウだろ。それこそ襲われなかったことを土下座して感謝するんだな」
とにかく俺は何度か深呼吸する必要があった。
「悪い、出かけてくる。今のは寝て忘れろ」
新しいシャツに腕を通してボタンを留めながら告げる。ロクはやっぱり腑に落ちない顔をしていたが、眠気には勝てず、またすぐ浅い眠りに落ちていった。




7 1   n i g h t




もう何枚目かも分からない社会面をめくっている時、不意に眼鏡を取り上げられた。
「あ」
気配に気づかないなんてうっかりしてた、いや、こいつが気配を上手に隠していたんだ。
顔を上げると当のナナセが取り上げた眼鏡を上下さかさまに自分の顔にかけてにこにこしている。「おはよう、ハジメに会いに来たよ」。
すっかり懐かれてしまった。
って、どうしてこいつは俺の居場所が分かるんだ。犬並みの嗅覚か?
「ああ、おはよう。で、鍵はちゃんと持ってるだろうな」
眼鏡を取り返すのも諦めて訊ねた。こいつはもうすでに数回アパートの鍵を紛失している。外出の度に落とすのだ。だから会った際は挨拶がわりに確認する。案の定、ナナセは曖昧に首を傾げた。
「おこる?」
「怒らないよ」
その目に見つめられるとどうも調子が狂う。良かった、とナナセは俺の正面の席に腰を下ろした。初めて朝陽の中でまっすぐに見た。部屋を出る時に後味の悪い別れ方をしてきたあいつと何となく比べてみる。目の前にある物を水面のように映す瞳は黒い。こいつ、たぶん母親似なんだろうな。俺は彼女の何も知らないけど。今まさにそのことについて調べていたわけだが。
「ハジメは、目がいたいの?びょうきなの?だからこれがひつようなの?」
「ああ、まあ、そんなとこかな」
何だかどうだって良くなってきた。
収穫のなさそうなライブラリを後にし、午後から会うつもりだった相手のところへナナセと一緒に向かう。
助手席に座ったナナセは車内を見回し、かっこいい、を連発している。
「そうか?普通だろ」
「ううん、すごくかっこいい」
あんまり無邪気に喜ぶので今朝の出来事も忘れてしまった。
「ナナセ、もう返せ」
「いや」
気に入っている様子だったが強引に眼鏡を取り返して、ついでにシートベルトの締め方を教えてやる。ナナセはつま先を揺らしながら「よく分からなかった。もういっかいやって」、なんてふざける。
構って欲しくてたまらないのだろう、そしてそれをちゃんと伝える。ナナセはちょっと手が触れ合うだけでくすぐったそうに身を捩った。本当に楽しそうに笑うから、こっちにまでくすぐったさが伝染しそうだ。
「ナナセ。お前、これから俺の云う通りにできるな」
「うん」
「今から会いに行くのは、4番だ。どうなるか分からないけど、試しにちょっと、組んでみないか」
これだけ説明不足な話もないってのにちゃんと考えもせず、うん、とナナセが頷く。


「ふうん、それで、僕にも気分転換しろってわけ」
「うん、そういうこと」
云われるが早いか少ない荷物をまとめ始める。
「あのね、もうちょっと、しおらしい反応ないわけ」
何が、と素で訊ね返す横顔を見て、俺の望みが叶うことはもう絶対にないだろうと思った。ちょっと期待していた。まあ、いちいち理由を訊ねてくるようじゃ困るが。 俺だって、いつまでもこいつだけの世話役じゃいられない。こいつだって、そのうち俺を必要としなくなる。 必要としなくなるように、導いていかないといけない。
荷造りを手伝いもせず、ベッドの上から煙草を吸いながら眺めていた。
「なあ、ロク」
「喋りかけんな、雑音」
ざつおん。
へえ、この俺が雑音呼ばわり。
こいつ、人を貶すことにおいては右に出る者がいない。
「そいつは、5番だ。そんだけ」
色々と情報を与えてやろうと思ったが今のロクの態度で気が変わった。こいつには俺のありがたいアドバイスなんかやるか。
「なあ、会えなくなるわけじゃないからな。いつでも呼べよ」
「呼ばねえよ」
「ほんと、つれないねえ」
そうしている内にもロクは荷造りを終えると、前髪を掻き上げて立ち上がった。俺のことを見据えると、しばらく何を云おうか考えた後、気づいたように俺の手から煙草を取り上げる。
「ちょっと、吸いすぎじゃないのか」
なんて、それがこいつなりの精一杯だったんだろう。
憎めないわけだ。
俺は何も答えずに笑った。
まとめた荷物を持ち直してロクがこの部屋を後にする。手元の時計を見下ろす。今回の「お引っ越し」にかかった時間、総じて6分。
「異例の速さですな」
ああ、だけど。
これで俺の荷も軽くなった。


最近の出来事を一通り話した後、どうよがんばってるでしょ、と顔を上げると、こいつ、せっかく俺が我慢していた煙草をぷかぷか吹かしてやがる。 じっと無言で睨んでいると、「ああ、欲しいのか」と一本差し出されたので腹が立って受け取ってしまった。まったく、救いようのない俺。救う必要もない俺か。
「にしても、ハジメは何でも拾うんだな」
「気に入ればね」
場所は半地下のバー。落ち着いた雰囲気の良いところだ。店の奥には店主のグランドピアノが置かれている。
「だけど、お前が好きなタイプだと思うんだけどねえ、さっき話してたナナセってのは。すごいかわいい」
ウォトカを注文する。無口な店主は分かっていたような速さでカウンタの上に二つ置いた。
「そんなこと分かるか。酔ったお前が歓楽街で拾ってきた得体の知れないやつのことなんか」
「得体が知れないのはお前も同じ。だけどさ、本当にかわいいぜ。俺が云うことに絶対首を横に振らないんだ。すごい才能だぜ」
「前から思ってたんだけど、お前は、自分に従順な奴をとことん誉める癖があるよな」
「誰だってそうだろ」
捌く立場なら、なおさら。しかも、常日頃顔をつきあわせていたあいつがあの性格だから。余計に好ましく見えたのかも知れない。かと云って、嫌いなわけじゃない。だから好き、とは云えなくても。そういうふうに分類できない。遠ざけようとするのはあいつにとってそれが一番良いだろうと判断したからであって、でも結局は自分が正しくなるための暴挙なのかも知れないな。いずれ壊れてしまうのなら今壊してしまえ、って思う。隣で優しくできないんだったら遠く離れてしまえ、って思う。
檻になるのがこわいんだ。
自分が、あいつにとっての単なる足枷になるのが、こわいんだ。
「そうだ、今度機会があればナナセと組ませてやるよ。お前、気に入っちゃって気に入っちゃってもうどうしようもなくなるかも」
ハチが、もう酔ってんだな、と吹き出した。どっちも人のことは云えない。うつぶせになった拍子に、カウンタに置かれたハチの指が目に入った。
「ピアノしてたよね?」
云われたハチが驚いて手を掲げる。指だけ見て分かるのか、って。
何か弾いて。
一生のおねがいだから。
素面だったらこうも上手くいかなかったかも知れない、程良く酒の回ったハチは店主のグランドピアノの前に座った。ピアノをしてたことを云ったのはハチ自身だ。指を見て分かるなんて、俺はホームズじゃない。話によるとハチに施された英才教育は音楽の分野でも多岐に渡り、ピアノの他にヴァイオリンだって習っていたらしい。いや、習わされて、いた。しかも一時はかつて俺の暮らしたあの街のコンクールで優勝した経験があるらしいのだ。これ、奇遇にも今朝のライブラリで得た収穫。作業をナナセに妨げられるほんの数分前。今でも名の知れた官僚の息子だ。それがどういったわけで、こんなバーで、酔い潰れた俺のおねだりなんかで軽々しく腕前を披露しちゃったりするんだろうなあ。
「店主、大事なピアノだろうけどちょっと貸して。聴いててよ。信じられないかも知れないけど、あいつの腕前は国際的なコンクールでもうずっと前にちゃんと保証されてんだ」
暫く指鳴らしのために俺でも弾けそうなメロディーを奏でていた指が、突然、明らかに別の物に変わった。
他の客が談笑をやめて奏者を見た。
何度か音を外すがそれだってスパイスになる。
街の地下の暗いバーが、思いもかけないコンサート会場になる。
有名なナンバーをテンポもリズムも自分好みにアレンジしながら時たま顔を上げてハチが笑う。
その表情は、自分は好きでやってる、って顔をしてる。

見れば分かるよ。
きらいだったわけじゃないんだろう。
本当に、すべてをは。

パズルのピース。
こぼれ落ちたり、拾われて、はめ込まれたり。
さまざまな景色の中に溶け込むことを繰り返し、自分の一番なじめる辺と辺をさがしてる。
時に反発したり、時に媚びたり。
いろいろな方法で誰もが彷徨う。
この街、月の光も届かない曇り空の下にあるこの街を。
夜になれば前触れもなくおとずれる上下左右も分からなくなるような眩暈。
だけど抉られた痛みを復讐心に変えないで、お前だっていつか、誰かの、見えない空にもちゃんと輝いている星になればいい。
誰かがそう信じられるような、かけがえのない存在に、そう思うような存在に、ちゃんとなったらいい。

051109