暗い雲にさえぎられても、あのひとのための太陽になりたい。




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おれが撃たれたあの件以来、あのひとは以前に増しておれを避けた。とにかく隙がない。完璧に近づくっていうのは、なんて虚しいことだろう、夕陽の中で見下ろして思った。寝顔が幼く感じるのは、いつも緊張しているからだ。
「無理すんなって云ったって、聞かないからなあ、このひとは」
これまで見てきたたくさんの表情が浮かんでは消える。何から消えてる?順序よく消えてる?(それは、ただしい?)。触れれば目を覚ます。触れなければずっと遠ざかってしまう気がする。
ふとにおいがする。
こんな時に、どうして。
せつなすぎる春のにおい、踊り場、あの場所で。
初めてひとをころしたんだ。
神秘の歯車を停止させるのなんてたやすい。引き金を引く、ナイフを捻る、その他方法多数。ただすれ違うだけ。コンビニエンスストアの狭い通路で、信号待ちのバスの中で、ふと目が合うだけの他人、重なり合う時間を持たないのならそれは物と同じ。看板、公園の空き缶、蝶々、煙草のけむり、どれもみんな同じ。正当化するのはでもまだ難しくて、どう解釈するかを眠りもせずに考えた。それが悪と出てもいい、善と出てもいい、辿り着く先については拘らないで、どんな位置にいるのかだけ考えた。
振り返った踊り場で、あの子は何を見ただろう。
さくらも空も、どうしようもなく美しかったろう。
さけびたくなるくらい、美しかったろう。
哀しいからじゃない。
涙が出た。
シンクロするように降り出した雨。一晩中打たれて、次の日の朝おれの体が泥になって知らない誰かに踏まれるんだったら、まだいいのになあ。ずるいなあ、まだ誰かの心配なんかしてる。にんげんの顔してる。血なら取れる。洗えば取れる。堂々と歩ける。誰もおれを逮捕しない。守られている、巨大な組織に。怪物。あいつら、秩序って鞭を持ってる。反論できるほどの余地も意味もとうになくて、ずるずる引きずられてる。その中でたまに、きらきらするもの見つけたりする。
あのひとは必ず一発で終わらせる。すごく真剣な横顔を、おれは間近で見た。瞬きもしない目、さわったら電流が走るんだ、あの、薄い痩せた手の甲にさえ。
たくさんの物が混じってる。どこへ行っても、顔の映る水面なんか見つからない。自分の顔も分からないで、やみくもに歩いて行くしかない。見えない取っ手に掴まればコウモリが噛む。柔らかい絨毯と思って裸足で乗れば空洞へ落ちる。あちこち打ち付けた体でぶざまに歩く。そんな時どんな相手にならもう一度心を開けるだろう。まだ遠い。その深みに対して、おれはずっと、浅い。届かない距離がもどかしいのにあのひとのどこかを一箇所たりとも傷つけず引き寄せる術を知らない。
今までは満たされてきた。
おれの親は二人とも健在だ。母は父が経営する料理店に客として来た。運命だから、ふたりはすぐ恋に落ちた。そしておれが生まれた。愛が何かを体がちゃんと知ってる。抱きしめられたことのある子どもは抱きしめられ方を知ってる。抱きしめられたことのない子どもは。

「だいじょうぶ」
泉から水を溢れさせて、乾いて窪んだ花の根本を潤す。一度にたくさんの水を与えれば、かえって枯らしてしまう。だから、少しずつ少しずつ、そしていつか、ありったけの水と光と、体温を。

「だから、もう、だいじょうぶですよ」

そういえば、まだ、起きないな。
と気付いた。
少しずつ、ちゃんと、慣れている。

050414