さすがに長い間空けすぎた、と思う。
電車に乗ったり降りたり歩いたり眠ったりしている内に分かった。
やっぱり、どこででも生きていけるなんてことないんだと分かった。
一度でも知ってしまったら、忘れない。
もしかするとサニーもそうだったのか。
おれがさわったからいけなかったのかな。
牛乳を与えて、名前を付けて呼んだり頬擦りしたりしたから、いけなかったのかな。
もしも出会わなければ生きていけたはずなのに。
さわらなければ良かったのかな。
知らないふりして素通りすれば良かったのかな。
余計なことだったのかな。
もう何もしないのがただしいのかな。




熱 に 浮 か さ れ る よ う に




ドラッグストアの前を通りかかった時、まだ残っていたかな、と思った。ミネラルウォーターのケース。クリスタルガイザー。何本残っていたか思い出せないまま通り過ぎた。

玄関を入り後ろ手に鍵を閉めて、耳をすます。灯りは点いていなくて、カーテンは閉じたままだ。開ける気にもならなくて鍵をテーブルの上に放る。いやに乱暴な音が響いた。のどの渇きを覚えて台所に入る。コンロにフライパンが載っていた。手をかざすとまだ微かに熱がある。ちゃんと食べただろうか。もうどこか出かけたのだろうか。室内を見渡すが姿はどこにもない。部屋にもない。おれはもう一度台所に戻って流しを見て気づいた。
そこには、汚れたミキサーと、白い粉が散らばっていた。
「白玉粉……」
分かるよ、
分かるから謝りたい、
泣きそうだ、
同じだ、
猫が轢かれたことをいつまでも自分の責任にすること、
ペットボトルの水しか絶対に飲めないこと、
忘れられないからいびつなんだ、
サーカスの象は逃げないって云う、
小さい時に逃げ出そうとして無理だったから、
からだがおぼえていて、
おおきくなっても逃げないって、
いう、

「……おれもあのひともおなじだ、」
感情があるからもう飲めない
そして今も、
小さいまんまのふたりだ

その時ちょうどベランダの戸が開いて冷たい空気が入ってくる。
カーテンが大きくなびいた。
嘘かと思った。
おどろいた。
たぶん、あっちはもっとおどろいた。
皿に載せていたフォークが落ちて、ふたりの間に沈黙が流れた。
最初に我慢できなくなったのはやっぱりおれで、

「何やってるんですか、もう、また風邪引いちゃいますよ」

そう云いながら、新記録、ってくらいに近寄って、

「もしかしておれの帰りを待っててくれたんすか、わあこんなに冷たくなっちゃって。薄着で出たら駄目じゃないですか。あ、何食べてたんです。おれにもつくって下さいよ。ロクさんの手づくり、そう云えばまだ一度も食べさせてもらったことないなあ」
表情がだんだんいつも通りに戻って、寄るな、とフォークで刺される。
哀しいほどに冷たいのに、泣けるほどに温かい。
全身がうきうきする、構わず料理をねだる。
「ねえ、ロクさん。たまにはお願いしますよ」
「サンの口には合わねえよ」
「それって、おれの料理がおいしいってことですか」
何でそうなるんだ、と苛立ちを滲ませながら睨んでくる。

いつかうそになるから何も云わないんじゃなくて、
いつかうそになってもやくそくを守らなくても不幸な結末を迎えても、
近づくために分かるために過ちをも晒す、
そういうふうに先ずおれが、おれ自身がなれたら、
このひとも安心して一度くらいは笑ってくれるかも知れない。

「ねえ、さみしかったですか。おれがいないと」
「は、めでたい奴だな。もう二度と帰って来んな」
「あ、ほら。素直になったらパフェ作りますよ」
「お前それ以上調子に乗るならほんところす」
「痛い痛い、すみませんもう云いません。そんな刺さないでくださいよ、おれだって生きてるんですから」

いつかうそになって
今を後悔する日がきても
今はまだ、
今をやめない。

「黙ってさっさとパフェでもケーキでも作れよ。時間がないんだ」
時間って何の、と訊こうと思ったがやめた。
「本当、素直じゃないですね。まあ、そういうところがロクさんらしいですけど」
「何か云ったか」
「いいえ、何も。テレビでも観ながら待ってて下さい。すぐ作りますから」

いつか終わりがきて
夜が静まり返って
体は冷たくなって
生きていた瞬間すべてがかけがえのない奇跡になるまで
まだここで誰かと一緒にいる、熱に浮かされるように

知ってしまった
知られてしまった
触れてしまった
触れられたいしもっと触れたいと思ってしまった

知り尽くす日なんてこない
ひとつになることなんかない
ぶつかり合ってそうじゃないって云って不器用なまま時が過ぎるだけ
そう分かっていても、
気まぐれに捨てては行けない
おれはどこへも行けない
何もかも忘れて、人間らしい瞬きもしないで、させてやれないで、ここでやめることなんか絶対にできない。

060205