俺の目の前で茶色の髪が揺れる。
「忘れないでくださいね。ぼくのこと、ちゃんとずっと覚えていてくださいね」
「うん?夢か?」
確かに隣にある体温を引き寄せた。
まいったな、こいつ、あったかい。
「ねぼけてるんですか、もう、ハジメさん」
一つにくるまったシーツに熱が移ってる。きもちいい。ずっとこのままがいい。




9 1  同 じ 屋 根 の 下 で




ひさびさの休日は正午からのスタート。腕時計は填めたまま寝てる。ボスにもらった唯一のものだから。ベッド脇の鏡を見て、「ひでえ顔」。鏡?そう、死角をつくらないため。ゆうべ枕元に置いたはずの煙草を探した。キッチンから音がする。誰だろう。クウか?
「おい、俺の煙草どこにやった」
とりあえず声をかけてみる。キッチンの音はやまない。聞こえなかったか。
「そこのお前に云ってんだけど」
「棄てたわ」
ふうん、意外。女か。
「お前、俺の何なわけ。ん、新しい家政婦か?」
こうなれば俺はすでに悪魔だ。勝手に期待して勝手に裏切られた気分になってる。
「それとも、例のサービスだっけ。俺、ちゃんと取り引きした?現金?」
とぼけたふりして切りつけるんだ。何枚か皿を割る音がして、女が出て行った。嫌な静けさが残る。俺は起き上がって、床に落ちていたズボンを拾い上げるとポケットに手をつっこんだ。札束がそのまま入ってる。
「俺が買われたわけ?」
なんちゃって。
いえいえ、これはちゃんとした報酬です。
紙幣にキスして窓を開けた。海が見える。あんたやっぱおかしいぜ、ボス、俺にこんな部屋よこして。最高だ、メルシー。
海に面したこの街で俺は俺の仕事をしてる。縄張り闘争に日夜明け暮れる男たち。俺は経験値も後ろ盾もほとんど皆無だったんでその下っ端。今はまだ。いつか、人の上に立ってやる。そう思ってみるけど、この街じゃそれは叶わない。もっと何もない場所で始めた方がいい。いつかどこか行こうか。チャンスを探して。
「あ。いいもんみつけた」
視線を落とした先の浜辺にぽつんと小さな影。さっき俺が期待してたの、あれだ。今日はもう呼び出しもないだろうから、ネクタイはしない。白いシャツ一枚だけ羽織って外へ出た。快晴。空が高い。いろんなことが最高。

「ねえ、何してんの。なんか面白いもんある?」
「…………」
「ねえ、おはよう、起きてる?」
「…………」
俺の声にいつもなら嬉しそうに反応するくせに今日はご機嫌斜めちゃんか。しゃがんだクウの足下の砂に紋様みたいな図式が書かれていた。いくつかの円と数字とそれを結ぶ直線と、あと読み取れないもろもろ。
飽くまで無視を決め込む姿勢を感じて、わざとその図をかき混ぜた。
クウがついに顔を上げる。
「9号ですか」
「何が」
「ハジメさん、あの人で9人目です。ぼくが来てから」
なんだ、これじゃまるで怒られてるみたいじゃないか。
「ふうん。俺もまだまだだな」
「……ハジメさん、」
クウが立ち上がった。それでもまだ身長には差があって、表情が見えない。その上、どこで手に入れてきたのか妙な帽子をかぶっている。
「何。俺に意見ある人?」
「ありません。ハジメさんが何人の女性といかがわしいことをしていようとぼくには全く関係のないことです」
「お。珍しく、ゆっちゃうねえ。けど関係ないって割には拗ねてる感じがするなあ。ん、どうした?」
俺とクウは同じ屋根の下で暮らしてる。景色は良くてもそんなに広い部屋じゃないから、薄い壁一枚隔てた隣部屋で何が起こってるかなんて筒抜けだ。クウにしてみれば毎度たまったもんじゃないだろう。浜辺に下りて一晩中月を見てる。雨の日は、傘を差して狭い路地をぐるぐる何周もしてる。そして朝になって俺が一人になった時、ちょうど帰って来る。そして何事もなかったみたいに、フライパンを使ってスクランブルエッグを作る。自分の食べるものは自分でつくること。俺が最初に云ったのはそれだけ。賢いクウは忠実に守ってる。
「ぼくがハジメさんのプライベートに関して拗ねるなんてありえません。気のせいです。自意識が過剰です」
「お前ね、そういうの拗ねるって云うの」
「それより、ちょっと、話があります」
そう云い、クウはやっと妙な帽子を取った。
「俺でいいの」
「ハジメさんしかいないんです。ちょっと、こっち来て下さい」
クウに連れて来られたのは、浜辺にある小さな洞窟だった。満潮になるとここも海水で満たされるらしい。
「お、いいね。秘密の場所?」
「そうです。ハジメさんが愛人3号を連れて来た日に見つけました」
「お前ね。暦って知ってる?」
日にちは女の数で数えるもんじゃないんだぜ。それに、
「それに、何ですか」
「どれも平等に大切なんだ」

あの家で一人の男をころしたよ。任務を終えて帰ろうとした時、クローゼットの奥から微かだけど物音がした。引き返して扉を勢いよく開けると、隅の方に体を丸めて、小さなお前が震えてた。「何が起こったか、分かるだろう?」。お前は、頷いた。後になってから責められたくない、そう思ったからわざとお前の前で、弾の無くなったピストルを内ポケットにしまい込んだ。だってその瞬間にはもう決めてたんだ。
俺、こいつを連れて帰る。
そう思わせたのも、突き動かしたのも、その目だよ。髪色と同じ、薄い茶の、澄んで、不自由なくらい澄んで、脆い。

050422