ある日いつものように酔った男は、僕にコップを差し出した。中には透明の液体が入っていた。何かたくらんでいる。男はアルコールだと云った。視線に促されるまま受け取って一気に飲み干した。液体が喉元を過ぎてすぐ分かった。男の云ったとおり、アルコールだった。
ただ、洗剤が混じってた。
僕がのたうち回っているのを見て、頬杖をつきながら男は笑った。ほんと、笑ってやればいい。僕なんか、あの時死んでやれば良かった。




9 1  究 極 の 二 択




俺がロクに出会ったのは、クウと秘密の誓いを立ててから三日後のことだった。
「お休み中悪いんだけど、邪魔」
玄関に丸まっていた体を軽く蹴った。起き上がって俺を睨み付けてくる。クウじゃないな。あいつはこんな目しない。
顔を覗き込もうとすると、身を退く。
「何もしないよ。じゃあ、これからロクって呼ぶからな。呼ばれたら反応しろよ」
興味なんかないふりをして、俺は自分の部屋に入った。せっかくだからドアは開けておこう。
「今日も稼いじゃったなあ」
ベッドに腰を下ろし、いちいち声に出して報酬の紙幣を数える。向こうでロクが窺っていた。
「ぱーっと使おうかなあ。それとも貯めて車買おうかなあ」
ロクがそろそろと部屋の中に入ってきた。
「僕がロクなら、お前は」
「俺?」
「他に誰かいるのかよ」
「ごもっとも。俺は、ハジメ。呼ぶ時は、ハジメちゃんって呼べよ。じゃないと反応しないからな」
「その金どうしたわけ」
へえ、なるほどね。
「さて問題です。ここに二人で三週間は贅沢できる額の札束があります。お前は現在俺と一つ屋根の下で暮らしています。お前には収入源がありません。職に就くだけのコネも能力もありません。ついでに痩せのちびのかわいげの欠片もないやつです。さあ、社会的に無力なお前のとるべき態度は次のうちどれでしょう。一、ハジメちゃんの寝ている間にお金を盗もうとして案の定見つかってお仕置き。二、ハジメちゃんの云うこと聞いて平和に半分こ。二択です。チ、チ、チ、チ、残り時間、5秒」
舌打ちしたロクが力ずくでお金を奪いにきたが、殺し屋が、5歳のガキに一月分の報酬剥がれてたまるか。
「はい残念、時間切れ。なお回答のない場合は、自動的に二を選択したものとみなされます」
肩で呼吸しながらロクが睨み上げてくるが、反抗しないのを見ると受け容れたんだろう。
「はいはい、睨まない睨まない。俺はお前のお友達じゃないぜ。御主人様だ。そう呼べ」
「は、誰がお前なんか」
「威勢良いなあ。よしよし。ちなみに今の冗談」
お前の部屋はここじゃなくて隣、ひとまず今日は休戦てことで、もう寝ろ。
云われたロクは案外素直に俺の部屋を出て行ったが、隣の部屋じゃなくまた玄関で横になる。
「ねえ。そんな場所で寝られんの?」
返事はない。
「なあ」
代わりに靴が飛んできた。
「いてえ。あ、そう。好きにしたらいいさ。ソファくらいなら、あるんだけどなあ」
もう片方の靴が飛んできた。

ロクがやっとソファで寝るようになったのは、吹く風が冷たくなった頃だった。この頃になると俺の元にもしょっちゅう依頼が舞い込むようになっていたし、家に帰るのは明け方近くだった。
自分の部屋に入ろうとして何気なく覗き込んだ隣部屋で、ロクがソファで寝ているのを見た時は思わず笑みが零れた。
「少しは懐いた」
大人しい寝顔を見ていると、あの部屋の光景が浮かんできた。散乱した硝子瓶、色んなものが乱雑に散らかった部屋、割れた窓と、いやな臭い。アルコールと古い吐瀉物。奥で男が寝ていた。
あれはひどい生活だった。
「じゃあお前、ベッドって知ってる?」
何気なく呟いた自分の言葉が、やけに大きく狭い部屋に響いた。
初めて分かった。
あの部屋で何が行われていたか。他人のことなんて、どうでも良かったはずなんだけど。初めて、分かった。

その日から俺は煙草をやめた。車を買うために、金を貯めることにした。それは出発への下準備だった。憧れと、期待と、夢の入り交じったイメージ。漠然とした、だけど必ず何かが実現するような、芯のある未知。勝ち取ってみせる。俺がお前に、道は自力で拓けるって示してやるよ。

050423