組織を抜けるにはボスの承諾が必要だったが、俺はすんなりとそれを手に入れることができた。あらゆる上司に気に入られる自信はないが、最上階の人間に気に入られる素質ならあると思っていたし、この件でそれが証明されたようなものだ。
別れ際、ボスは俺に一つの鍵を渡してくれた。
「え?これ」
車の、鍵。
「あげるよ」
光の奥に、初めて見たボスの顔。大きな椅子に身を埋めた彼女は、予想していたより、ずっと若かった。
「頑張れ。お前には才能があるから手放すよ」
「それは、組織にとってどうなんですか」
「そんなこと気にしてるうちは、人の上になんて立てんだろうな」
彼女はそう云って笑った。
車を買おうと思って貯めていた金は今後の生活資金に充てられる。正直、かなり助かる。俺はこの時の彼女の姿と言葉を忘れないと思った。どこにだって、彼女みたいな大物はいる。支えを取り外して、自分の足で歩き出す時が、もう目の前に迫っていた。




9 1  処 女 航 海




いざこの部屋を出て行くんだと思うと、これまで気の付かなかった染みや汚れが目に入ってきた。一つ一つ指でなぞった。窓を開けて海を臨み、冷たい風に素肌を晒す。どこへ行くんだろう。具体的なことはまだ何一つ考えてなかった。ただ帆を張ってみただけ。ちゃんとどこかに辿り着くだろうか。
俺は、たった、一人で。
「ハジメさん」
振り返って、だいぶ背が伸びたな、と思った。いつの間にか俺の肩に届く背丈が、一緒にいた年月がそんなに短くなかったこと思い知らせる。思い出させる。色んな出来事。日々とか台詞、一つ一つのシーン。そこには海があって必ず空もあって、映画みたいだった。色んなものにぶつかって、立て直して、よろよろになりながら、倒れても立ち上がった。
一人じゃなかったから。
「なあ。俺のこと好き?」
「嫌いじゃないです」
こいつは、俺が、置いて行くって云えば、文句一つこぼさず去って行くだろう。そしてこの街にありふれてる放浪者の一人になって、ごみを漁って、繰り返しの毎日を生き抜くことに夢中になる。
今は綺麗な茶色の目も、澱んで、いつか何も見なくなる。
「なあ、俺と来ないか」
どこへ、とも云わなかったのに、クウは頷いた。
「ハジメさんが、ぼくを必要としてくれるなら、どこへでもついて行きたいです」
「大切にはできないよ。と云うか、しないよ。俺そういう奴だから」
「分かってます。それでも構わないです。ぼくはずっとハジメさんについて行きたいです」
俯いて、どんな表情してんの。知りたくなる。眸はやっぱり、澄んで、脆い。その目は、不自由なくらい、俺を縛り付けて。
「ずっと祈ってたんです。あの暗い部屋で。神さまを呼んでたんです。毎晩、それだけがぼくたちをころさなかった。だからあなたは、ぼくたちと、」
俺を、縛り付けて。


92に就いてすぐの頃はほとんどクウに会わなかった。ロクはというと俺と同時期92に就いた。勧誘したのは俺だ。理由は、生活費を自分で稼いでもらうため。ここでロクは着実に腕を磨き、一方俺もある程度の地位を掴み取った。壮大な目標に一歩近づいた、ってとこか。
また、92に就いた以上はロクにも例外なくパートナー制度が適用される。俺は上司の立場から今まで色んな奴と組ませてみたが、これが意外とあいつを成長させた。
いつかロクに知ってもらいたかった。
過去を知って監視して罪を助長するような俺じゃなくて、今のお前を見て全霊で守って純粋にお前と笑いたいって思う奴が、どこかにいるさ。父親を殺した罪悪感からじゃない、罪悪感?笑えるね、俺の辞書にそんなのない。
その願いを遂げうるのは俺じゃなくて、もっとお前のこと何も知らない奴だ。その上、いつか過去を知るようなことがあっても、可哀想だ、って、だけどもうだいじょうぶだ、って抱きしめてくれる奴だ。同情は悪意じゃない。誰かが自分を思って憤ったり泣いたりしてくれるんなら、悲劇の主人公にでもなってやればいいんじゃねえの。
俺にはできない。
資格もないし、俺はもう、お前をそんなまっすぐには抱きしめられないよ。
「ハジメ」
ロクにそう呼ばれる度、確かめるように唱えた。
傍にいてやる。
お前のことを澄んだ目で見てくれる奴、お前がそこに辿り着けるまで、俺がお前の傍にいてやる。

050423