何があった、って訊いたってお前は「何もなかった」って答える。
救いの手があったか、って訊かれて「そんなものなかった」って答えるのと同じような素っ気なさで。




0 0 ( 選 ば れ な か っ た 航 路 の 果 て で )




「俺だって傷つくのよ?そういう反応されると」
黒いソファの上に寝そべって雑誌をめくっていたそいつは、俺のそのせりふを聞いた途端、片方の口の端を嘲るような形につり上げた。
「おい、何を笑った?」
読んでもいない癖に。
赤い表紙の雑誌。
何でも良いから、音を立てるものが欲しかったんだろう。この部屋にはテレビも電話もラジオもないから。そんな場所に勝手に上がり込むような俺がここにいるから。
「傷付く、って言葉。何それ。お前いつからそんなにやわなの」
だからそういう言葉のナイフが。
と云おうとしてやめた。
分かっていないわけじゃない。
本当に何も分かっていなくて知らないふりをしてるわけじゃない。ってこと、そういう二人の感覚、俺はどうして忘れていたんだろう。いや、
ソファの背もたれに腰を下ろして俯く。
ここからじゃロクの顔は見えない。ロクにも俺が見えない。
「……忘れようとしていたんだ」
だけど、見えていたって見ようともしないんだろうな、お前は。
「何か云ったか」
部屋の隅に置かれたスタンドライト。そんな場所に置いたって何も照らせないだろう。(何も照らしたくないんだろう)。
部屋の中には雨の臭いが漂っている。少しだけ開けられた窓。水滴を吸ったカーテンが湿っているのが見える。薄暗い部屋。食べ物の臭いもしない部屋。天使の飛び立ったバルコニー。突き落とされた刺客。ここまでは伸びてこない緑の蔓。遠くで鳴る踏切の音。
ここはあの街から遠い。
海面を映す人形の瞳、ガラスのケースに美しく並んでいて、それらはまだ少年だった無知な俺にも柔らかく微笑みかけた。
海岸通り。落ちて行く夕陽。食べられそうだ、って笑った。あのひとがそんなふうに云うんなら、俺だって何だってできそうな気がしたんだよ。
裏道の白い壁。影だけの猫。暴行を受けている子ども。艶めかしい折檻の音。世界は鳥かごのように平穏で凶悪で、調和の取れた混沌そのもので、本も教師も持たない俺には自分の一瞬の思いつきだけがすべただった。何だってできそうな気がしてた。そして、何だってできた。
なあ、いくつ知ってる?
煙草を覚えたのはいつ?
初めて銃口を向けた相手は誰?
夜に見る夢の内容は何?
朝起きてまだ自分が生きていた時のいいわけは?
なあ、いくつ知ってる。
お前は、いくつ。
産まれてからずっと治らない俺の狡さ。
他人の物を横取りする癖。
踏みつぶす煙草の灰に特定の誰かを思い浮かべること。
従順な駒に命令する時も。
必死の口答えを無視する時も。
神様の子どもみたいに微笑む時も。
悪魔の手先みたいに踊らされる時も。
お前は、知っていた?
俺が、ずっと、ただの、脆い、人間だったってこと。

「闇なんだよ」、背もたれから崩れ落ちるようにして、ソファに仰向けに寝ているロクの、頼りない腕の中に体を沈める。二人の間でくしゃくしゃになった雑誌が、ロクの手で静かに床へ落とされる。まだ濡れている肩に冷たい指が食い込んで、拒まれるのかと思った。
拒めば良かったんだよ。
ほんの数秒の躊躇いが俺を有頂天にして、耳の下に噛み付く隙を与えた。柔らかな管は、歯で噛み切っても致命傷になんのかな。試したことないから分からないな。試してみようか。今ここで俺の歯で噛み切って、死に至らしめてやりたいよ、この、知っているようで知らない生き物。近すぎて遠い命。見えない。見えない。一度も正しく。
「いやがんないのな」
「いやがれば素直に退くのか。まさかな。違うだろ。僕は無駄なことが嫌いなんだ」
「はン、賢いんだな」、 柔らかな茶色の髪に鼻先をうずめる。
感触を記憶することにしばらく耽り、ようやく両肘を立てて少しだけ上半身を浮かすと、今日初めて目と目が合った。一週間ぶり。いや、もしかするともっと短かったかも知れない。長かったかも知れない。分からない。分からないし、分かる必要もない。そんなことは。
見下ろす瞳の中に自分が見える。
あの時俺を掴まえた透き通った茶色。
今にも醜く変色する直前の、完熟の果実。
琥珀か黒か。
すべての色彩をその奥に潜めて、何も知らない、ってふうに瞬きの影に隠れる。
でも見つける。
俺は見つける。
戸棚の中に隠れていたお前が、あの日殺人者の俺に出会ったように、お前だって俺を見つけた。
「コップだよ」
切り出す瞬間を見計らっていたように、そいつは喋りだした。
左手を俺の首にかけながら。
その重みで俺の視界をもっと満たす位置に近づけながら。
「コップの中に水が入っていました。男はそれを飲めと云いました。だから僕は飲みました。洗剤でした」
それだけだよ。
「それだけ?」
記憶している事実は、とロクが付け加える。
優しい声は聞き慣れない。
その声にも、今の自分が尋常じゃないってことを知る。とっくに自分が尋常じゃなくなってたってことを、知る。

ごめんな、と謝る。
雨音が強まる。
何もない部屋。
誰かの記憶の中のような。
断片的にしか機能しない視力。
その目に出会って。
その目に飢えるまで。
一日だって保たなかった、本当は。
「ごめんな、やっぱり、他のやつには預けられなかった」
背中に回されたロクの手が少し震えた、「僕は、物じゃない。ましてお前の物じゃない。僕は僕だけのものだ」。
「違うな。お前は死ぬまで俺のもんなんだよ」
大きな溜め息。
でもそれも震えていた。
「ガキかよ」
「サンのことは殺していない。会いたいって云えばいつだって会わせてやるよ」
「云うかよ」、ロクの腕が初めて俺を拒むために動く。その時になると俺だっていつもの調子を取り戻して離さない。
「本当だよ。殺していないし、殺すつもりもない。会いたいって云えばいつだって会わせてやるよ」
云うかよ。
ロクは小さく吐き捨てるように繰り返して、ソファの上で顔を背けた。
「俺がいるのに余所見か」
「……だからガキだっつってんの」
どこにそんな体力を温存していたのか、俺をはねのけたロクは立ち上がると上着を掴んだ。
「行き先がどこだって良いだろ。僕の勝手だろ」
「まだ何も訊いてないだろ」
「分かるよ」
「じゃあ俺の、」
「何だ」
ロクが振り返るまで黙る。
うんざりした顔が俺を振り返る。
目だってもうこの部屋に慣れた。
暗がりに慣れない体なんて、あるわけがない。
「俺の云いたいことも分かるんだな」
「分かりたくない」
俯いた小さな頭。目の前の現実を頑なに否定したがって、色素の薄い茶色が揺れる。
「分かりたく、ない」
「仕方がないんだよ」
「……云うな」
「お前がいると、得体の知れない空虚に、何らかの名前を付けてやれるんだよ。安心するんだよ。その名が闇でも」 、安心するんだ。

分かれよ。

「なあ……ハジメ。この、莫迦。大人しく僕を行かせてくれよ」
ロクの手が伸びてくる。
項垂れた俺の頭を抱える。
そうされると死にたくなる。
できるだけ早く、今死にたくなる。
雨の音が聞こえなくなる前に。
微かにでもまだ体温がこの部屋に漂っている内に。
瞳を隠して。
武器を棄てて。
無防備な体を寄せ合って。
(血と骨と肉の塊を抱くだけだ)、
何の損得も考えないで。
(誰を何回傷つけていたって)、
名前も忘れて。
(何回も誰か傷つけていたって)、
光なんか消して。
(血と骨の肉の塊を抱くだけだ)、
ラジオなんて消して。
(この手が汚れすぎているってことはないだろ)、
言葉なんて消して。
(そうだろ)、
過去なんか消して。
未来なんか消して。
他人なんか消して。
自分なんか消して。
理由なんか消して。
意味なんか消して。
邪魔なもの消して。
光なんか消して。
光なんか消して。
光なんか光なんか消して。
世界中の光なんか全部全部消して。

「はは、愚者だね」

どちらかがそう云うまで。
闇の中で良い、抱き合ってみたいんだ。
選ばれなかった航路の果てで。
選ばなかった航路の果てで。

17:45 2006/12/01