ひらべったい空間。
物理的な意味じゃなくて精神的な意味で。精神的?それって視覚的じゃないな。
冷たいフローリング、だったはずの床にはいつの間にかカーペットが敷かれている。淡色にすれば気づかれないとでも思っているのか、フローリングに合わせたライトベージュ。余計を施すことにおいて右に出る者はいない。嫌いになれるはずもない。苦手なだけ。
「苦手。っていう言葉にくるんで逃げてるだけじゃないの」
姿見の中に映っているのはまぎれもない自分。あぐらをかいて、両ひざに両肘をついて、不機嫌に自分を見つめるもう一人の自分。対峙することはエネルギーを使う。下手すると死ぬかも知れない。
冷たい中指が触れたところで止まる。
いま指の腹から入れ替わって、自分が自分だと信じているものが実は自分の虚像で、鏡の向こうに拡がる世界だけを模倣して存在しているのかも知れない。ありきたりな空想。仮にそれが空想でなかったにしてもさほど不都合はない。
色素の薄いのがいやだった。
目も髪も。
似ていなければいいのに、あんな、血のつながった男には。
忘れたと思って、忘れたと思って、忘れたと思って目覚めてもまた息を吹き返すんだ。
殺したと思って、殺したと思って、殺せたと思って目をつむっても翌朝は結局同じ時刻に蘇るんだ。
コップの水を一気に飲み干す。飲み干したつもりが口の端からこぼれて顎を垂れる。拭うのも億劫。水滴が足の上に落ちる。
その時ふいに気配があり、後ろから伸びてきた腕がタオルで水滴をふき取る。この世話焼きにはめまいがする。何か云ってやりたいのに、突き飛ばしたいのに、そんなことできない。
僕は筋肉がうっかり弛緩したというふうを装い、口からだらだらと水をこぼす。
『もう、ロクさん。駄目じゃないですか、お行儀悪くしちゃ』
「なんだ、お前か」
『うわあ、ちょっと何すかその態度。たとえ押し売りだとしても親切には感謝の意を表明してくださいよ。最低限のマナーっすよ。……て、うわあそれ。それですよ、その目つきっすよ。かわいくないなあ。せっかく総合的にかわいいのに勿体ないっす。あ、でもそういうかわいくないとこがロクさんの最大のかわいさかなあ、とかこのごろ悟れてたり悟れてなかったり』
「殺され、たいの」
叶わないよ。
『えええ、そんなわけないっすよ、できれば一緒に生きたいです』
無理だよ。
『ね。一緒に、生きましょう。ここもちゃんと美しくスバラシイ世界だから』
スバラシイだの世界だのなんだのって、こいつ実はペテン師か。
生きましょう、だなんて反吐が出る。行きましょう、でもなければ逝きましょうでもない。生きましょう、だ。それをこんなライトに発言して許されるのか。ここ92で。
僕は背後の男と、鏡を隔てて向き合う。
まぶしい瞳。大きくて、忠実な動物みたい。ひそかに太陽と呼ばれる男。僕と男との間が曇っていたにしても、男そのものを曇らせることなどできない。太陽はいつも太陽でありつづけるだろう。
天真爛漫の笑顔。頭のネジがゆるんでんだ。ぜったい。
こんな僕を構って、こんな僕に時間も気力も体力も費やして、一体どうだっていうんだ。いい加減、目を覚ませよ。でなきゃ、も、こっちまで夢見がちになる。
「ばか……サン」
ああ、触れたい。
触れられたように一度だけ触れたい。
でももう手を出せないよ。
だって、これは、僕の思い描いている、ただの幻想だから。
この部屋には、鏡に映った僕のほかにもう誰もいないんだから。




1 6  ヒ ー ロ ー




雪が降りしきる夜、同僚の心中を目の当たりにする。
ああ、これはまた違う夢だ。夢?夢なのか。
僕はあたりを見回し、鏡がないか確認する。鏡こそ見つからなかったものの、なにも映していないテレビの画面に自分らしき人間の姿が映っている。マフラーの中に鼻まで埋めて表情はよくわからない。
隣にはよく知った男。スーツにコートを羽織って、口元には心底狡猾そうな苦笑い。普通の人間なら見抜くことできるんだろうか。ぼくは自分がもはや普通でないと理解できているから見抜くことができる。心底狡猾な人間ほど、一見人当たりがよさそうで実際物腰も柔らかだ。心底狡猾な人間ほど言葉のように心情を弄べ、チェス盤を見下ろすように世界を見下ろすことができる。もしもピアノの才能がある男にピアノの才能があったように、無邪気な少年に無邪気な才能があったように、各人の特徴があらかじめ各人の努力に起因しない先天的なものだとしたら、心底狡猾な人間の狡猾さというのもまた当人の意識に関係なく発動されるものなのだろう。
いやらしい、やつ。
いやしい、やつ。
僕はできるだけ目線を同僚の死体からそらさない。
これくらい何てことはない、人はいつか死ぬ。自殺だろうが他殺だろうが自然死だろうが病死だろうがいなくなることに違いはない。
部屋には何の物音もなく、粉雪の積もる音さえ大きく響いてきそうだ。
冷たい室内では、車を降りてから建物に入るまでにかぶった前髪の雪さえなかなか溶けない。溶けるだろうと思っていたものが溶けないというのは厄介だ。軽く頭を振って払い落す。そのしぐさが動揺によるものだと誤解されませんように。僕はしばらくその場でじっとしていた。
疲れた。
踵を返してまた新しい方向を向くのも、言葉を発するのも、考えるのも、溜息つくのも、翻弄されるのも、愛されるのも裏切られるのも愛されないのも裏切られないのも死ぬのも死なないのも殺されるのも殺すのも生きるのも生きないのももう何もかもばかばかしくて疲れたなんでここにいるんだろう。

92の7番はお姫様のようなみたいなほっぺたの色をして、ただ眠っている様子と何ら変わらない。肩をゆすればくすぐったがって起きるんじゃないだろうか。だけど僕にはしゃがむのも面倒だ。92の8番は王子様のような顔立ちをしてお姫様の下敷きになっている。いや、王子じゃなく御者か。この姫は随分と姫らしい姫だった。

模範解答。
を、地で行く二人。
去って正解のこの世界。
莫迦なようで直観的には直結してたんだ、いっつも。僕を差し置いて。

「何、ぼーっとしてんだ。ロク。……まあ、確かに、芸術的ですらある死に様だな。ハチの潔さには好感が持てる。ああ、俺にも運命の人あらわれないかな」
「とか云いながらさりげなく触んな、この汚物野郎が」
 窘めても制御しきれず黒革の手袋に顔を引き寄せられる。僕はポケットに突っ込んだ手をいつでも殴打のために出せるよう準備する。そんなことしたって何の改善にもならないって、分かっているのに。
 相手は腰をかがめて背丈を合わせながら、もう片方の黒革で僕のマフラーを静かにはずしていく。首筋に触れた冷気で室温もずいぶん低いことを知り、しかしすぐに吐息で忘れる。感じないふりをした。
「しっかし6番くん、相変わらず反応ないねえ。たまには上司を労えよ。色とか艶で」
「色とか艶?あってたまるか」
 くだらない発言ばかり撒き散らすハジメの、形の良い顎に、僕は躊躇せず右フックを食らわせた。戯言がままならないくらいに関節ずれろ。一生ずれてろ。
 パワハラを兼ねたセクハラ、一時中断。
 再開の見込みなし。
 あってたまるか。
「うーん、しかし、悪くないって実感するなあ、現場も。いっそ降格したい」
嘘つけ。
決して本当を本当らしく云わないハジメは祈るように跪いて僕のコートの袷で髪の雪を払った。
うまくほどけずひっかかったマフラーが首で止まった。
僕はいったん出した手を再びポケットの中に戻して、初めて、この部屋の風景を見回した。
出た時と変わっていない。住人も、家具の位置も。
ソファに目をやる。
誰かの笑い声が残っている。戯れと。誰か。そう、誰か、だ。もう名前なんてない。いなくなった者に記号は必要ないだろ。
「9に5に3に7に8に、次は僕の番か?」
抑揚のない問いに返事はなく、後ろへ撫でつけた前髪にぼくは手を置く。他の誰が知っているだろう。こんな幹部を。
いつも思っていた。
形の良い額。鼻筋。案外と長いまつげ。どこから見ても落ち度のないこの男を、どうやって手なずけたらいい。 僕らは小賢しく、互いに考えあぐねていた。主従ははっきりしていたけれど、はっきりしていることはそれだけだった。本名を知らない。出生を知らない。過去を知ってても、いまを知らない。いまのこの、互いの気持ちを。知らない。知らない。なにも正しくない。正しくないからこそ今は今たりえているんだろうけれど。いつのまにかしゃがみこみ、余韻という余韻、予感という予感に身をゆだねている。ゆだねてばかりの僕だ。
「それ、外さないんだ?」
「それって?」
「革手袋だよ」
「ああ、ごめんな。俺、冷え性なの」
この駆け引き。
微妙でじれったい。
ああ、僕が少しずつ生きてきた。
体温を体感する。
血を流す。
鼓動がここから始まる。
どこから?
まぶたの裏で別世界が進行するから目をつむることなんてできなくて余計に光景を把握する。
弱みになら付け込むことができる、って、こいつはそう思ってんだろう。
だけど構わない。
付け込むにはおまえも入ってこなくてはならない。こっちへ、この空虚なからだのなかへ。

 外さないんだ?
 ああ、ごめんな。俺、冷え性なの

「革越しじゃない、その手を」。

そう要求することもできたかな。いや、できなかった。僕は死んでもこいつに何かを要求しない。イコールでありたいから。貸し借りは俗的、可能な限り、たとえ不可能だとしても、忌避したい。
「なあ、ロク。厭になるよな、どいつもこいつもお幸せで、」
「おまえだって相当だよ」
「意味は」
「不幸を望んでる」
「望んだとおりになっているから、幸せだと?」
傑作。
ハジメは眠たそうな眼で僕を見上げた。
「云っとくけど3は殺してない。あいつのアホさは殺意を失せさせる」
「92の幹部をもってしても?」
 はは。ありえる。
「けどなあ」、続けながらハジメは再び立ち上がり僕の耳に唇を寄せた。食いちぎられても文句は云えない距離だ。
はは。ありえる。
「けどなあ、ロク。殺意がなくたって人を殺せる男だぜ、お前の上司は」
「ご自由に」
「おまえを特別扱いしているつもりはない。ただ特別なだけだ」
「お上手で」
「依存が始まったと思ったら、その時は殺してやるよ。殺意もないままに。卵を割るように、そしてそれをかきまぜて別のものにしてやるから、せいぜい依存しない程度に同居を続けろ」
 ここは地獄か。
「この世きっての性悪だな」
「どういたしまして」
「おまえはどうなんだ」
「何が」
「僕に依存している」
 ハジメは少し顔を離して、驚いた表情をつくった。この道化は何をしたって道化めいている。だから僕はこいつに対しては無表情であっていいのだ。相手がこれほどの無表情なんだ、道化以上の無表情ってないだろう。だから僕も感情を悟らせない。台本でも読むように台詞する。予期せぬ答えにも動じない。
 もっとも僕の場合は、相手が誰であれ、おもしろくもないのにほほ笑むなんてことはないんだけど。おもしろくたって笑うことはないんだけど。ていうかおもしろいことなんてもうないから。どこにも。
「依存だって」
「ああ」
「俺が」
「ああ」
「お前に?」
 ハジメは僕の口を右手の黒革で押さえつけて、黙らせた。「遺憾だ」。
 その時左手は耳元のイヤフォンを操作する。これはそのまま通信機になっている。運送屋の到着までは二十分とかからないだろう。

 十分ほどで到着した運送屋の二人はハジメを見て小さく会釈した。こういう礼儀を持っている連中だとは知らなかった。
 それから運送屋(今回は某有名引越センターの制服だ)は帽子を目深にかぶりなおし、黙々と作業に取り掛かった。ほどなくして再びこの部屋から物音がなくなる。四人が二人に減った。二人も間もなく立ち去りゼロになる。
「なあ、ロク。ナナセは死体に見境なく発情する」
「それがどうした」
部屋を出ていくハジメから少し離れて僕も部屋を出る。
ドアを開けたら外は相変わらず雪が降っていた。
その眩しい白い背景に、黒い男の背中が霞んでいく。
男の黒い背中。
黒い男の背中。
背中も腹も黒い男。
僕の司令塔。
好きではない。
だけど嫌いでもない。
苦手なだけだ。
苦手だって言葉で逃げているだけだ。
いつか時が来る。
向きあわなければならない。
こいつは今日手の内を明かした。
注意していてもはまってしまう罠だってある。
「それが、どうした」
聞こえていなかったのかと思ってもう一度訊ねる。同じ質問を繰り返すなんて、僕には珍しい。
ハジメは半分だけ振り返る。襟に隠れて見えないけれど、目だけ見ると少し笑っているふうにも見える。いつだって全体は見えない。僕はこの男について何も知らない。知ることで何かを得られるとも、何かを失うとも、あるいは得たことで何がどうなるかとか、失ったことで何がどうなるかとか、そういうふうには考えないんだけれど。
「自分の死体を見ても発情したかな、って思ってさ。あの、迷子だった子猫ちゃんは」
 その時、僕のほほをかすめて金色の何かが部屋の中央へ投げ入れられた。
 それがハジメの大切にしていたネックレスで、それは手向けの花代わりだろうということくらいは僕にも分かった。だけど振り返らない。
 振り返らず僕は、閉まりそうなドアに手をかけて、ハジメの後を追った。
 あいかわらず、ポケットに手を突っ込んだままで。

12:20 2008/01/08