ひらべったい空間。
昨日の同じ時刻とまったく同じ位置で僕はあぐらをかいている。もしかすると昨日とか今日とか存在していなくて、僕は連綿と連なる永遠にも思える有限という名の無限であるところの一瞬を怠惰に無感動に過ごしただけの話かも知れない。このまま三日たてば頬は削げ眼は浮き上がり、七日もすれば目も当てられない。一か月と一年が経って、ようやっと誰かが異変に気づくんだ。
カーテンの隙間から差し込む太陽の位置が少しずつ変わる。
太陽、どうかいかないでほしい。
手をつなげるほど近くにやってきたもの、それはすべて取り上げられてしまった。どこかへ消えてしまった。霧か雪のように幻のように。知らなければそれで生きていけたのに、なぜってそうして生きてきたから、だけど知ってしまえば空虚は不足の意味を持ち、いてもたってもいられない。居るか立つしかない身でも。
カーテン。
そういえばこれだって自分で付けたものじゃない。
部屋を作るにおいて、空間以外に何が必要なんだろうと本気で思っていた。座るときに体が痛いからクッションが要るな、物を手に取りやすいようにテーブルなどがあるといいな。そうしてできあがった僕の部屋を、あいつは病的だと笑った。病んでいるのなどはじめからだ。
鏡の中の自分が再び手を伸ばす。同じ動作をもう何度繰り返しただろう。一億回同じことを繰り返したならば入れ替わることができると信じきってしまった者のように。
肘が伸びきる前に先ず中指がガラスに触れる。もしもそれが水面で、あの日の夢につながる水面ならば、溺死することになっても潜ってゆきたい。この際生きているか死んでいるかは関係なく、自分がどこにいるかが重要なんだ。それも叶わないなら、自分がどこにいたいか、それを願っているかが重要。
ああ、雨が降っている。
やはりこれは今日という本日の出来事であって過去でも未来でもない。
僕は目を閉じ何もかもから解き放たれようとした。
「……サン?」
再び目を開けると入口に誰かが立っているのが見えた。いつの間に、いや、ずいぶん前からか。
「正解できず、残念でした」
その人物は横を向いて煙を吐く。
僕は鏡越しにその男をにらみつけて、
「放火する気」、
5番を殺したように。
「どうやら俺はとんでもない誤解を受けているな」

 『誰も取りませんよ?ねえ、そんなあわてなくても』
 『怪我って、ほんのかすり傷ですよ。ほら、包帯だって大袈裟なくらいな』
 『ねえ、さみしかったですか。おれがいないと』
 『何やってるんですか、もう、また風邪引いちゃいますよ』
 『抱きしめて良いですか』



       いいよ、
           いいよ

「ハジメ」、僕は立ち上がって振り返る。呼ばれたハジメは相変わらず斜め上へ煙を吐いていた。聞こえているのに返事をしない。
僕がそのそばを通り過ぎ部屋を出ようとすると、意外に強い腕力につかまって後退させられる。
「何か用」
「それはないぜ。俺に対して」
「お前なんか知らない」
腕に食い込んでいた手から少しだけ力が抜けるのに感づいた、けれど、こちらが感づく程度に抜いている相手にも感づいた。
要は、このしぐさに意味などない。ってこと。
「なあ、ロク」
僕は振り返ることをしないので左腕だけ捻られるような格好になる。決して頑強そうには見えない男の体から発せられる力に、嫌気がさす。拒み続けてきたのに拒みきれた試しがない。
ハジメは僕の手の甲に煙草の先端を近付けた。
身動き一つしない。
ずっと前に経験があるので絶えられないことはないだろう。
「なあ、ロク。俺がどうしてお前に多くを与えてきたか知ってるか。住む場所、仕事、パートナー。見返りのないお前に、どうして多くを与えてきたか?」
首をどちらにも振らない。
熱い。
皮膚にはまだ付いていないけれど、悪夢がよみがえる。ううん、あれは悪夢なんかじゃなかった。夢どころか現実だった。
「どうして、だよ」
僕は、こんなふざけた現実など早く過ぎ去ればいいのに、と願っていた。

「うばうため」、

 思わず身震いした。
 それは、手の甲に触れたものが熱い煙草の先端だったからではなく、

「与えたのは、奪う為。それ以外に理由なんかない。子供のわがままでさ。俺もかつては子供だったんでね。だけど、やめた」
「何で」
「だって、ロク、壊れてしまうだろ」

 震えたのは、手の甲に熱い煙草の先端が触れたから、
 ではなく、
 そんなにざんこくなものでは、なく、
 そういえば初めて感じる、
 少しだけあたたかな熱をもったハジメの唇が、
 傷痕をぬぐうように触れただけだったから。




1 6  ヒ ー ロ ー




という夢を見たんだけど。

カッカッカ。
フォークが食器にあたる音。
僕はひさびさに朝食をきちんと摂りながら、料理人の顔を見上げる。そのたび料理人はさっとおしぼりで僕の顔、主に口元をぬぐう。
「いちいち拭かなくて良い」
「だってえ。いちいち顔にマヨネーズ付いてるんですもん」
「……。付いてるんじゃなくて付けてるんだ、これは。余計なことすんな」
そういいわけして僕はサラダののった皿を抱えて椅子を後ろに引く。
料理人は傷ついたような目でテーブルごと抱えて近づいてきた。
「寄んな」
いやです、と駄々をこねて料理人はテーブルの上でおしぼりをぎゅっと握りしめた。
「だいたいその話、ほんとに夢なんすかね。案外現実だったりして」
「は。ハジメなんかにキスされたら僕は今頃切腹だ」
それを聞いた料理人は途端に明るい笑顔を取り戻し、しかしすぐに不安げに眉をひそめると「どっちの手ですか」と訊ねてくる。ばかばかしいので放置しておくが、なんだかまだうるさいので「左だったかな」と云ってみる。右手はフォークで埋まっているから。そうしている間に料理人はさっさと左手を拭き始めた。
こいつここまであほだったかな。
「なあ、サン」
テーブルの上に並べられた料理。好みは知り尽くされた。嫌いな食べ物についても。水は未開封のミネラルウォータじゃないと絶対信用しないってことも。だけど全体的な栄養はきちんと考えられている。気のせいかもしれないけど、おかげで最近自分の髪の毛が黒くなってきた。海藻をたくさん食べるとそうなるらしい。嘘かほんとか分からないけれど、父親譲りの茶色い毛が黒に変わるのであれば、黒だって大歓迎だった。心なしか瞳の色も黒に近づいてきた気がする。このまま真っ黒になってくれると助かる。
「はい?」
「僕、鏡の中に入り込んだのかな」
一瞬の間があって、突然何かを激しく誤解した様子のサンが目を輝かせて詰め寄ってきたのでフォークでひと刺し刺しておいた。だけどサンの目は一向に輝きを失わなかった。
「ちょ、ねえロクさん。もっと意味わかんないこと云ってください。意味わかんないこと云うロクさん、新鮮です!」
「んだよ、きもち悪いな……」
「はは、錯乱してるんすね」
「大いにあんただ」
こんなやつに云ったのが間違いだった、と思いながら僕は皿をテーブルに戻し、食後のデザートに手を伸ばした。そのためだけに今まできちんと食べてきた。テーブルのお皿を一枚ずつ根気よく空にしてきたんだ。
パフェの底にはバナナクリームとチョコソースがたっぷり入っている。掲げたグラスを覗き込むと、小さなシュークリームが三個ほど見えた。お腹が一気にリセットされる。別バラ態勢、オン。
「だけど、ハジメさんとは半年ほど会ってないです」
「一生会いたくない」
「俺は、ちょっと心配すね……ちょっとだけ、ですけど。ハジメさんって、何考えてるかわかんない人だから」
「何考えてるかわかんない人間がすべてじゃないか?それともおまえはどんな人間の考えも的確に見抜けるともで云うか」
「そういうわけじゃないっすけど……。ただ、ハジメさん、その……ロクさん一筋なとこあって、あっ、いや別にきちんとそういう話したわけじゃないんですけど、えっと……その……、そんな人がそもそも俺にロクさん任せるってことは、いなくなったりしちゃうんじゃないかなあって思って」
「困ることなど何もないだろ。おかげで世の中が少し平和になるだけだ」
「もう、どうして素直にならないんすか、ふたりとも」
「ひとくくりで語られちゃたまんねえよ」
そりゃ、この、目の前の、やたら料理のうまくてやたら笑顔の出現率が高い男にとってみれば、素直じゃない人間など不可解な生命体に他ならないんだろうけど。
僕にしてみれば、そんな生命体こそ不可解に他ならない。
サンはしばらくむすっと不貞腐れたような顔をしていたが、すぐににこにこし始めた。僕がデザートに夢中になると、いつもこうだ。なんだがむしょうに殴りたい衝動に駆られるのはどうしてだろう。デザートはおいしいのに。申し分ないのに。いや、だからか。デザートがおいしいからだ。申し分ないからだ。
だからこそ、一発殴ってやりたい。
「ね。ロクさん。食後でいいんで、抱きしめて良いですか」

これだからこそ、一発殴ってやったんだ。








































 、
    (いいよ)。