「あなたにとってのわたしは何よ」
ええと、浄化装置?
「それどういう意味」

こういう女は頭が痛い。サイドボードのシガレットケースを取る。この女よりもずっと賢いあいつのことを思い出した。感情はいつも体に添ってるわけじゃない。どうしてそれきりのことが解らないのか。哀しければ叫ぶなんて、嬉しければ笑うなんて、稚拙すぎる。とはいえ許されていればそうもできただろう。むしろ、それが一般的に正しいだろう。俺達はたぶん、少し、何かが足りない。
「どういう意味って、そういうこと。本命を汚したくないんだ。ほら、俺って顔に似合わず酷いやつだから。優しくしたいのね、あいつには。体とかじゃなくて」
変わらない甘さで笑うと、女の顔は泣きそうに歪んだ。丁寧にほどこされた化粧が嘘みたいに歪む。そんな顔を隠さなければ、もっと好きだったかもしんない。どうして女は汚さを隠すんだろう。その癖その嘘が暴かれると、今までにないくらい果敢な自爆を遂げるんだ。
「あんたなんてもう顔も見たくないわ」
それは願ってもいない。じゃ、さよなら。




8 6  ハ ロ ー




「ひどい、本気ひどい、ハチは世界中の女の子の敵だ」
頬杖をつく別の手でライターをカチカチ鳴らしながら心底そうは思っていないみたいにロクが云う。俺は疲れた体をぐったりとソファに沈めて「うん」とか「そうそう」とか適当な相槌を返している。
「そうそう、俺は世界一レディの扱いがなってない。うんうん、おまえの云ってる通り」
「ほんとに分かってる?」
「何を」
「女の子は繊細なんだ」
ロクはたまに俺を笑わせる。そのせりふを冗談とも思っていないおまえの方がよっぽどひどいと俺は思うよ。ひとしきり笑いが収まったころ、ロクの手から二本目の煙草に火を点けてもらった。ロクは厭な顔をしながらも口にはしない。俺がニコチンで死のうがタールで死のうが興味ないらしい。
いや相当、肺にきてるんだけどね。
表情には嫌悪感を残しながら、ロクは冷蔵庫から取り出してきたミネラルウォータのボトルの先を口に含んだ。
「健康志向だねえ、ロクくんは」
「ハチを反面教師に」
「ひでえ」

「そんで、ナナセは?」
「え。そんで、って、何と繋がってたの」
ロクが頬を緩めながら訊いてくる。こういうところは抜け目無いやつだ。俺だってもう隠さない。女じゃあるまいし。ソファの端に一昨日ナナセの羽織っていたカーディガンが丸まっている。それを足で引っ掛けて手に取った。
「お、これナナセの臭いがする」
「変態」
「ああそうだよ立派な変態だよ」
ロクが、しってるしってる、と笑う。やっぱおまえが一番ひどい。
「ハチはさあ、どうして女の人を好きになれないのさ」
「女は厄介。気持ちまでちゃんと並べようとするだろ。そんなに一貫性を持たせたいか?」
「……ふうん」
「何だよその、嘘じゃん、て目は」

「だって嘘じゃん。そういうんじゃなくて、もっと根本的に否定しているところがあるんじゃないの。すべての女の人がそうだというわけでもないんだし。とすると、原因は自分の中にある。つまりハチは、女の人が怖いんだろう」

ロクはこういうところにいちいち冴えている。脳裏によぎった母親の顔を、俺はすぐに掻き消した。煙草の煙で掻き消した。母親じゃない。他人だ。知らない、あんな女。
「てかナナセいいじゃん。かわいいし」
ロクはここに至ってようやく「まあね、たしかにかわいいけどね」と波長を合わせてくれた。少し同情じみていた。我ながら、ストレートすぎた、と反省する。
「もしもナナセが女だといいなあと思った?」
「あ、そういうのなし。そういう、もしもこうだったら系の会話、俺苦手」

ロクは小さく笑った。

「でも答えてよ。ナナセが男だからいいの?それとも、ナナセだからいいの」
ナナセは嘘を吐かない。ナナセはまともじゃない。ナナセは泣かない。ナナセは追いかけてこない。ナナセは気持ちを揃えようとしない。ナナセは化粧をしない。ナナセは誰の前でも、ナナセ以外の誰にもなろうとしない。その癖誰も、ナナセを知らない。いかれちまってる。触れないくらい。
「ナナセだから、いい」
「ふうん」
「たぶんな」

ロクは、よくできました、と笑った。おまえ誰。

「ほら、最近入り浸ってるだろう。製薬会社の社長。超大物じゃん。報酬がはずむって喜んでたよ」
「あー、もうそんなナナセが大好き。俺なんか忘れちゃって好き勝手にニャンニャンやっちゃって、あーもうもう、ニャンニャン。俺もナナセとニャンニャンしてえ」
「ハチ壊れた……」

腹いせに、というわけでも。戯れに、というわけでもなく。どちらかというと後者に近い。でももっと真剣に、触れるように噛み付いた。笑って済ませることができるのは、満たされないと知っているからだ。底のひび割れた瓶にいくら水を詰めたって、いっぱいになることはない。

「えろい、えろい。ハチのやり方超えろい」

ロクが声を立てて笑う。誰も知らない。幼稚なわがままのままに、いくらでも重ね合う。誰も知らない。哀しすぎて満たされなくてでも涙を知らない眼差しで、仰向けの空を眺めているだけ。ふたりのソファは死にそうに悲鳴を上げる。ソファのふたりは死にそうに笑い転げる。白昼堂々、ハロー混沌の世界。

040805