ナナセが泣いていた。
嘘だと思ったら本当にそうだった。夢だと思ったら本当にだった。
ソファの上で小さな猫が、アンモナイトの化石の形で寝ている。尻尾を鼻の先まで届かせて。ナナセの眠り方はいつも、猫を想像させた。髪や顔を触ってもちょっとやそっとじゃ覚めない。だけれど気が付いたところで狸寝入りをしているのだからあまりアテにならない。




8 2  ハ ニ ー




ナナセの髪は黒い。本当に黒い。光に透かしても色素は黒単色だ。俺はその髪をもうずっと見てきた。
ゆっくりと目を開けた。
白い薄い瞼の切れ間から、水気を孕んだ黒の瞳が自分の手の指を見つめている。見えることを確かめるように何度か瞬きしたあと、ゆっくりと、柔らかく、こちらを睨み上げてきた。ただ寝起きが悪かっただけかも知れない、でもその時は睨まれたような、気がした。気?いや、絶対睨まれた、な。
「あ、すいません」
つい謝ってしまう。
何を?
俺は何か悪いことでもしたか?
ナナセはそのすぐ後で、今度は微笑むみたいに下瞼を弛ませた。睫毛に沿って、こすったように赤くなる。その変化を見ていた。まるでこっちの方が寝惚けているみたいだ。

「ハチ?」
アスファルトを雨が打ち付けている。風はない。まっすぐに落ちて砕ける雨音だけが、耳鳴りのようにしている。扇風機の所為かも知れない。
「はい。ハチくんです」
部屋は灰色だ。この部屋には灯りがない。消音にしたテレビだけがチカチカと異国の景色を映し出していた。はしゃぐタレント、日本人、性別女。名前は、忘れた。胸の谷間を強調するような、薄手のシャツと短いスカート。世間はまだ夏か。
「ハチ?」。
「ハチ?」。
「ハチだよね?」。
舌足らずな口調が俺をつついているような。ちょっとした意地悪が先立って俺は黙っていた。そうすると、ナナセは掌の中にその小さな顔を埋めて咳に似たくしゃみをした。

「え、寒いって」
今日この部屋は、湿度が高く、寒いというよりは気持ち悪いのだ。じめじめと蒸している。それなのに寒いと云うこいつは、きっと、
「風邪でもひいたか?」
ダイニングの椅子にナナセのカーディガンがかけっぱなしになっていたことを思い出す。立ち上がろうとすると、意外に強い力が服の袖を握っていて、再び元の位置に戻される。
「さむい、んだ」
誰にだってする。
そんな目、そんな声、そんな、顔を?
誰にだって。
するのか?
おまえは。
「さむいんだよ」
子どものように体温が高い。
顎の下で今、黒い髪が、頭が、微かに上下している。
呼吸。
二人に挟まれた手が、鼓動を探り当てて、ナナセは小さく笑った。
「心臓だ。ハチの。……ちゃんと動いてる」
「喰われそうで怖いよ」
脈が上がっていることにはもう気付かれただろう。情けない。
「なあ、どうして泣くんだ」
さっき、とは云わなかった。逃げ場を残した俺はやっぱり、ナナセには残酷になれないのだと思った。それはナナセを傷つけたくないからじゃない。どちらかとういと、自分が傷つくのが怖い。まっすぐに訊ねればナナセは、まっすぐに答えるだろう。それが、怖くて、この口はいつも冗談めかした質問ばかりを。
「どうして泣くの」
「は?」
「どうして」
「いや、それ今俺が訊いたんだけど」
「だから。どうして」
わからないんだ。
そう口にこそ出さなかったものの。途方に暮れたような声は今度は演技じゃなかった。何が俺にそう思わせたのか確かめられない。雨は静まってきている。

「なあ。ナナセ。誰にでもそんな感じで訊いた?」
俺でなくても、良いのじゃないか。その答えを、知っているのは、俺じゃない。
「訊いたよ」
悪びれない声が答える。どうして期待なんかするんだ。俺はいつも。
「こんな感じで、甘えて、さわって、強請るみたいに。誰にだって、訊いた」
手の内を明かしてもそれで自分が不利になるわけじゃない。かえって相手を不安にさせて、もっとたいせつにしてもらえる。ナナセはそのことを知っている。そうやって生きてきた。もう誰にも責めることができない。責める理由も、何処にも。ない。だって俺は、こいつにとっての、何だ。パートナー?92の?もしも92がなければ、俺はこいつの、何でもなかったと云うのに?確実なものなんて一つでも示してあげられるのか。ゆるがないものを、教えて、あげられるのか。二人の間には運命なんかない。すべてが偶然に起こってきた。振り返れば辻褄が合っているように見えるだけで。だからこいつが何を糧にしようが、どんな事をしていようが、癖があろうが、咎めたりなんかできない。少なくとも、今するべきじゃない。俺なんかが。頭ではそう分かっていたのに、そしてそれはきっと正しいのに、俺はもうナナセを許せなかった。一番に厄介だと思っていた気持ちが余すところなく全勢力をもってこみあげてきて、それが喉元を通るより前に、力を込めた手がナナセを突き放して、その頬を叩き付けていた。
「あ、」
ナナセは弾かれた姿勢のままソファに横たわった。怒りを露わにした矢先に謝罪の手を差し出すような器用なことできるはずもなく、俺はみじめな後悔の息をもらしたきり、ナナセの仕草を見つめるだけだった。ナナセは体を返し仰向けになると、左の手の甲を目元に押し当てる。泣くのか、と思ったらナナセの薄い唇は、笑う、の形を取った。

「だけどね、こんなふうに安心できたことは、いっかいもない」

ナナセが呟くようにそう告げた時、手も頭の中も腹も足も足の指まで、一気にすべての力が抜けた気がした。脈が落ち着きを取り戻していく。きたない自分を振り返ってうんざりした。俺達に、何もかもをたたきつけて壊して、ばらばらにして、もう元に戻せないくらいにめちゃくちゃにした時に、「それでも」と抱き締めてくれた人はいない。無償で繰り返し注がれる、やさしさを知らない。ナナセに至ってはなおさらだ。何も知らないふりをしていながら、本当は分かっているんだろう。何が欠けていて、何があれば満たされて、自分が何であって、そして、この先のことも。同じ場所に立っている者同士にも完全には分からない胸の内を、少しでもわかりあうことができたら。今ほどそれを、強く願ったことはない。ナナセはさっき自分で云ったことばをしばらく反芻していたが、ようやく納得したようにもう一度笑った。

「そうだな、ここは、安心できるよ、ハチがいるから」

迷いはない。突き放したばかりの体を引き寄せて、首筋に顔を埋める。ナナセがどうしていつも笑って、俺の前では無防備に眠ってみせたりするのか、やっと、分かった。一つずつ、綺麗にほどけていく結び目の中で、柔らかなひかりが瞬いている。何がナナセを笑顔にさせ、その一方で苦痛なんか微塵も感じさせないのか、やっと分かった。

「……どうしてハチが泣くの」
云われて気付いた。
「これは、さっき中途半端に泣き止んだ、強がりな、おまえの分だ」
我ながらいい加減な理由だと思う。だけど構わない。熱や声が、伝わっている。伝えている。腕を回した体は細い。もう少し力を込めれば簡単に、潰せてしまいそうだ。その内ナナセが痛がって、不機嫌そうに眉を顰めて不平を云うだろう。手に取るように分かる未来だ。テレビの中でタレントが笑う。そのスクリーンを無視してふたりは泣く。



Honey,



この世の中に、同じものはない。
どんなに解り合おうとしたって、
必ずどこかですれ違っていて、
そんなんじゃない、とまたひとりになる。
だけど不器用な生き物だから、
そのままうまく歩き続けることなんかできなくて、
どうしても泣きたくなって、
いちばん懐かしくてあたたかな方に戻っていく、かえっていく。
この日々はいつかかならず終わる。
誉められもせず、心の底から笑うこともなく。
この日々はいつかは終わる。
でも、終わらない。
この気持ちは、どこまでいっても、何を見ても、棄てられもせず。
そう、この気持ちには、終わりなんかない。
何度うらぎられても誰かをわかりたいと思う、
君を、
わかりたいと思う、
この気持ちには、
終わりなんかない。

040830