グラウンドでサッカーをしている生徒達の笑い声が聞こえてくる。
 それもずっと下の方から。
 頭の後ろで組んだ手がコンクリートの固い床に擦れて不快感一歩手前で痛い。
 快感と不快感は絶対にどこかで繋がってる、って、おれはそう思ってる。
 ボーダーラインをさぐりあてるみたいにゴリゴリと頭の位置をずらしたり傾けたりしていると、屋上に続く鉄製の錆付いたドアが開かれる音がした。
(来た)。
 再び目を瞑ったおれは咄嗟に寝たふりをする。
「アサトくん?」。
 上履きをぺたぺた鳴らしながら近付いて来た相手はしばらくおれの名前を呼び続けていたが何度呼んでも反応が無いと分かるとやっと諦めてくれたみたいだった。ちょこん、と横に座る気配がする。
 ちょこん。
 実際にそんな音が出るわけでは勿論無いが、そいつの仕草はどれもこれもいちいち音が付きそうなくらい丁寧。物を扱う時も、人と接する時も、投げやり感や乱暴さがちっとも見当たらない。つまりおれとは正反対の人間ということ。違うところばかりだ。かろうじて同じところと云えば性別、年齢、それから出身保育園と出身小学校。

 つまりおれとリクは幼なじみってわけ。

 おれが薄っすら片目を開けて確認するとリクは空を見ていた。
 白んだ青を背景にリクの髪の薄茶色はしっくり馴染んで、ずっとコントラストを下げたそのシーンはようやく開けたおれの目にやさしい。
「ねえ、アサトくん。どうしてドラマとか漫画だと学校の屋上に入れるんだろうね」。
 ふいに話しかけられておれは慌てた。
 瞼を閉じてしまったから後のことは分からない。
 まっすぐ、と云う他無いリクのまだ保育園児みたいな瞳は今おれを見ているかも知れないし、空を見ているかも知れないし、自分の上履きのつま先の色の付いたビニール部分か、もしかすると町並みを眺めているかも知れない。リクの瞳や眼差しは疑うことを知らなくて、偽ることを諦めさせる力がある。他の人間にとってどうかは知らないが、そんなふうに少なくともこのおれは思っている。
「ぼくはね、物語の冒頭における虚構宣言だと思うんだよ、あれ」。
 なおも黙っていると次の瞬間、額と額がぶつかった。
「……ったあ」、思わず目を開けたおれはリクを押しのけて体を起こす。
「何やってんだよ、バカじゃねえの、誰かに見られたらどうすんだよ」
 おれが云うと、
「だってアサトくん何回呼んでも起きないんだもん」
 リクは悪びれず返してくる。
「だからってその起こし方はやめろって云ってんだろ。もう子供じゃないんだから」
 制服の袖で唇を拭ってみせてやろうかとも思ったが、思い直し、手の甲を押さえつけるに留めておく。
 正直、不快感は無い。
 単純に感触だけを考えて感想を述べるなら、柔らかくて気持ち良い。(もっともおれはリク以外をまだ知らない)。だけど行為として考えた場合、それが一般的な常識とは少しかけ離れている点は否めない。そしておれは常識を無視して我が道を進んでいけるほどまだ強くは無い。その点で云えばリクのほうがおれよりずっと強い。放課後とは云え、いつ誰が訪れるか分からない場所で、こんな。こんな。
 もう子供じゃない、そう云ったあたりでリクの顔がすでに泣きそうになっていることに気づく。人に気を遣わせたり心配をかけることを何より嫌うこいつのことだから放っておけば持ち堪えることは確実、疑いようも無かったが、その選択肢を取ったとして後悔するのは間違いなくおれのほうだった。
「……あ、ごめん」
 で。結局おれが謝る。
「ええと。だから、屋上が、何?」
「やだ」
「やだって何が」
「分かんない。でも、もういい」
 何故か話を続けたがらないリクの隣でおれはあぐらをかいた。眠いわけでないのにあくびが出る。じゃ、やっぱり眠いんだろうか。なんだかもうわけがわからない。
「今日も、バイト?」
 あぐらをかいたおれの隣で体育座りをしたリクが訊ねる。ああ、と頷いたおれは「何でこいつおれがバイトしてること知ってんだ」と思ったが、その件に関してはもう追究しない。
 自分のことを自分以外の誰かが知っている、ということを自分が知らない、ということはよくあることだ。
「最後の数学の時間、寝てたよね」
「簡単なとこだったし。よゆー」
「……アサトくん、あんまり無理しないでね」
 無理なんか、そう云いかけたおれはリクの視線を感じて口を噤んだ。
 おれの母親はおれがまだ保育園に通っていた頃、交通事故で死んだ。それ以来、おれは父親と二人暮らしを続けている。母親の不在をまだぼんやりとしか認識していなかった当時のおれに、父親は毎日お弁当を作ってくれた。朝と夜のご飯を作ってくれた。どんなに疲れて帰って来ても、愚痴なんか絶対に云わないで、食事だけは必ず一緒にとった。寝る前は絵本も読み聞かせてくれた。その内おれは自分でできることは自分でするようになった。今度はおれが父親のお弁当を作って、朝と夜のご飯を作って、洗濯や掃除をこなし、町内会の行事にも参加した。
 自分で云うのもなんだけど理想の父子関係だと思う。本人が聞いたら嘆くか怒るか拗ねるかしそうだけど、母親の存在が欠けたからこそそれは手に入った関係だと思う。
 三角形ではなく直線の家族。
 思いやる心が釣り合うように、もらった恩は必ず返した。与えた分は必ず何らかの形で戻った。不自由は無かった。
 おれは早く大人になりたかった。いつも大人になりたがっていた。今だってそうだ。
 大人になって色んな物を見て色んな人に会って色んな体験をして複雑な思考回路を構築できれば、父親の気持ちをもっと推し量ってやれるのに。おれのために頑張ってくれて、おれの気持ちを大切にしてくれて、おれの話を静かに聞いてくれて意見を尊重してくれて、自分のために何かを優先させたりなんかしないで。
 人間なんだからもっとぐちゃぐちゃでいいのに。
 言葉で云うのは容易い。云うだけなら。だけどおれが本当に伝えたいことはそれじゃ足りない。あの人をぐちゃぐちゃにするためには、おれが「見せてくれ」と頼んだりするんじゃなく、自分からぐちゃぐちゃになってもらわなきゃ意味ないんだ。
 頼って欲しい。もう大丈夫だって分かって欲しい。あんたは立派に育てたよ、って。
 まあ、実際はぐちゃぐちゃな部分なんかどこにも無くって、子育てに没頭することが慰安になっていたのかも知れないけど。
「……アサトくん?」
 リクが首を傾げている。
 父親と過ごした時間と同じくらい、リクとも同じ時間を過ごしてきた。驚くべきことに小学校に上がってから中学二年生の今までおれ達二人はずっと同じクラスだったのだ。保育園時代を入れると実に十年間も一緒の教室だったことになる。
「バイトって云っても早朝の二時間だけだから」
「三時くらいに起きるんでしょ?」
「そうだな」
「その時間ぼくまだ寝てるよ」
「寝坊魔だもんな、リクは」
「アサトくんだって一回寝たら起きないじゃん」
「それいつの話だよ。起きるって。起きなきゃいけない時はな」
 問題は、リクがおれを気遣っている点だ。
 母親という存在が恋しい時間がまったく無いと云えば嘘かも知れない、でも、今の生活はそれはそれで幸せなのだ。
 こんなこと云ったって、つよがりにしか聞こえないかも知れないけど。
「なあ、リク」
「うん?」
「お前さ、もう、おれのこと見放して良いよ」
 グラウンドから聞こえてくる生徒達の声がその一瞬大きく盛り上がった。
 リクは「え?」という顔でおれを見ている。
「めんどくさいでしょ、おれ。リクに気遣わせてるし教室でも浮いてるし」
 リクの顔に「え? え?」と書いてある。
「なんで? なんでそう考えんの? ぜんっぜん浮いてなんかないってば。アサトくんがかっこよすぎてみんな近づけないだけだよ。女子だってそんな話してたよ、アサトくんかっこいいから遠くから見てるだけで満足だ、って」
「ふうん」
「男子もアサトくんに憧れてんだよ、アサトくんだってみんなと仲良く喋ってるじゃん、でも単独行動が多いから、みんなでわいわいするのがあまり好きじゃないタイプなのかなあ、ってみんなそう考えてるだけだよ。アサトくんがみんなから浮いてるんじゃなくて、みんながアサトくんから浮いてるんだよ。って、あれ、ぼく何云ってんだろ」
「ふうん。で、リクは?」
 身の潔白を証明するみたいに必死で言葉を並べ立てていたリクが、その質問で意表を突かれたような顔をする。
「リクはどうしてそんなにおれが好きなの」
「ぼくが?」
 一瞬固まったリクは数秒後元に戻った。
 目を伏せて視線を地面に彷徨わせる。
「……だって、アサトくんがぼくを好きなんだもん」
 今度はおれが固まる番だった。
「は、おれ? おれはそんなこと云ってねえよ」
「ぼくだってそんなこと云ってない!」
「だったら人の気持ちを勝手に決めんな」
「でも、だって分かるんだもん、アサトくんだってそうでしょ、」
 ここでリクは息を大きく吸った。
「だからさっきアサトくんは寝たふりをしたんだ何故ならぼくに起こして欲しかったからだっ」
 そんなわけないだろバカかお前。
 否定したかったのにするつもりだったのに、おや、と思い当たらないでも無い。もちろんそんなふうな素振りは絶対に見せないんだけど。
「いいよ、もう」。
 おれが黙っているとリクは立ち上がった。
 来た時と同じように上履きの踵を鳴らしながら歩き出す。来た時と違っているのはその音が近付いてくるのでは無く、遠ざかって行くところだった。
 空の色が変わってゆくのを眺めながら、おれはコンクリートの床に両手を付いていた。立ち上がっていた。歩き出せば追い風。ドアの手前でリクに追いつく。
「リク」
 振り返らない。
「いっしょに、帰ろう」
 しばらくすると、うん、と頷いたのが見えた。
 おれはリクを追い越して先にドアに触れた。錆付いた鉄製が、ぎぎ、と音を立てる。ドアの前には現在は使われていない机や椅子があって、その先に地上に続く階段が下っていた。
 振り返ったおれはリクの背後で空がまた色を変えていることに気づく。青から赤へ。それなのにどうしてその間は紫じゃないんだろう。
 分からないことが多い。
 多すぎる。
 どうやらおれはまだ大人じゃないみたいだ。そのことがもどかしくもあるし、うれしくもある。
 不自由は不幸なのかな。
 拙さは不憫なのかな。
 そうじゃない、必ずしもそうじゃない。
 欠けていなきゃ得られなかったもの。失わなければ見つからなかったもの。たくさん、たくさんあるよ。
「おい、リク」
 愛され甘やかされてきたこいつにはおれみたいにちょっと強引なのが丁度いいだろ。
 その手を掴んでボーダーラインを跨がせる。
 虚構と現実を乗り越えて、背中で一つの世界が閉ざされて、リクが顔を上げる。
「アサトくん」
「うん」
「やっぱり数学のノート貸してあげる。よゆー、じゃないでしょ」
「正解。ありがと」
 整いたくない。
 こいつと話していると、おれはもう少しぐちゃぐちゃになりたいと思う。
 不安定に満ち満ちたこの自分は果たして何らかの病気に罹っているんだろうか。
 見え透いた嘘は振り出しに戻る。
 背伸びした足が痛くなる。
 望みどおりのスピードは出なくても、時は怠慢にだらだら流れているように感じられても、おれもリクも大人には遠くて、これはただ恵まれた日々の、ただただ不安定な日々の、二人しか知らない、いつまでも終わらない物語。


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