その日の放課後。
 担任から預かったプリントを手におれはリクの部屋の入口に佇んでいた。
「お待たせしました。入って良いよ」
 目の前のドアが開けられ、上気した頬のリクが顔を出した。
「あんま動くと、熱上がんじゃねえの」
 三分間で片付けられた部屋はところどころおかしな点が目立つ。
「……ま、見逃してやるけど」
「あ、そうだ、飲み物。何か飲み物持って来るね」
「良いよべつに。病人だろ。じっとしてれば」
 おれが寝ているよう促すとリクはようやくベッドに腰掛けた。
「今、どれくらい?」
 床に腰を下ろしたおれが何気なくテーブルの下を覗き込むとゲーム機や雑誌が詰め込まれていた。よっぽど散らかっていたのか。
「体温だよ、体温」
 きょとんとした表情で首を傾げているリクに向かっておれは主語を補足する。
「……あ、測ってないや」
 リクはおれに申し訳無さそうな目を向けた。
「体温計、どこ」
 取って来るから、とおれが立ち上がるとリクはしばらく考えた後で「分かんない」と答えた。
「でも、もう大丈夫だと思う。ちゃんと治ったと思う。うん。痛いところ無くなってきたし、体も軽いし。あ、でも体が軽いのはアサトくんが来てくれたからかもね」
 最後は笑いながら云う。
 呆れたまま睨んでいるとリクから笑顔が消えていく。
「分かんないだろ」、おれが歩み寄るとリクの体が強張った。
「ひゃっ。冷た、」
「じっとしてろ」
 額に手をあてられている間、リクは云われた通りじっとしている。
 目を閉じてろって云われれば次に開けろって云われるまでずっと閉じてるタイプだな、こいつは。
 分かりづらかったのでおれはリクの脚の間に屈む。自分の膝をしっかり掴んでいる両手首を握る。案の定、後ろに下がろうとする力が働いていた。その手を前に引き寄せる。額同士をくっつけ合わせてじっと測っていると、リクが絶えられなくなったように薄目を開けた。
「あ、あのさ……。これ、アサトくんにとっては普通?」
「ん、ああ。我が家ではそうだけど?」
 事実だった。
 おれが風邪を引く度、父親はこうやって熱を測る。もっとも最近は滅多なことでは体調を崩さなくなったから測ってもらう機会も来ないけど。
「何で?」
 おれが質問するとリクの目が宙を泳ぐ。宙を泳ぐって云ってもたぶんこいつの視界には今おれしか入ってないんだけど。
「……ま、熱は下がってるみたいだな」
 おれが体を離すとリクは溜めていた息を一気に吐くように深呼吸した。
「リク。夕飯、何食べんの?」
 勉強机の前に置かれている時計を見る。もうすぐ七時だ。この部屋へ上がってくる時に確認したのだが、家の中には他に誰もいなかった。あれから誰かが帰ってきた気配も無い。
(ま、中学生だしな)。
 リクの家は共働きだ。幼児ならともかく、中学生の息子が風邪だからと云ってわざわざ帰って来ないだろう。
「何か、作ってやろっか」
 おれの言葉にリクは驚いた顔をした。
「ほんとに?」
「親、遅いんだろ」
「うん。あ、でもお腹空いてないから大丈夫だよ」
 ふうん。
 おれがもう一度、時計を確かめているとリクがテーブルの下からゲーム機を取り出した。
「アサトくん。ゲームしよ、ゲーム」
「ん? ああ、おれはべつに良いけど」
 じゃ、しよう。リクにしては珍しく強引に誘って、いそいそと準備を始めた。何かおかしいな。そう思ったが病み上がりってのはこんなものか。気にしないことに決めた。
 ゲームを続け、気づくと八時になっていた。
「まだ帰って来ないな、両親」
 おれの言葉にリクが頷く。
「え、うん。我が家ではずっとこうだよ」
 リクが笑った。
 その時おれは、さっきの自分も同じだったと気づいた。額で熱を測る方法。「我が家ではそうだけど」。そう云った時と同じ表情でリクは「ずっとこうだよ」と云う。
 二階建てのマイホーム。二台が入る駐車場。芝生の庭。片付いた玄関。広いリビング。
 それに比べて、散らかったリクの部屋。
 広い家の中で、そこにだけはちゃんと人が住んでいる気配。テーブルの下に押し込まれたゲームや雑誌。ガキっぽいな、とからかったベッドにはなんだか色褪せたくまのぬいぐるみが転がっている。おれはそれに見覚えがあった。おれの鍵にはゾウのキーホルダーが付いている。保育園の先生にもらったものだ。おれがそれをもらう前から、くまのぬいぐるみはこの家にあった。
 こいつは絶対甘やかされてんだと思ってた。
 だからいつまでたってもこんなんだって勝手に思ってた。
「なあ。家に来るか」
「え?」
「飯。そろそろ帰ってくるから」
「あ、おじちゃんのこと。アサトくんがご飯作ってるんだよね」
「今日は麻婆豆腐にするんだけど。リク、好きだろ。麻婆豆腐」
「うん、好き。あ、でも……」
「親にはメール送ってれば良いじゃん。おれの名前出せば安心するだろ」
 そっかそうだよね、と納得したように云いながらも煮え切らない様子のリクを急かして着替えさせる。
「リク。お前さあ、」
 引き出しから引っ張り出したトレーナーに頭を通したリクが顔を向ける。
「何?」
「これから先もし彼女ができたとしてさ、この部屋に呼ぶ日が来たら先ずおれに云えよ」
「アサトくんを? 何で?」
「何で、って……」、おれはベッドに転がったくまのぬいぐるみを抱きかかえてそれとなく示すがリクは分からないようで不思議そうにしている。
 おれは深い溜息と共にくまを元の位置に戻した。
「ま、その日が来たら教えてやるよ」
 それから一時間後、おれとリクは帰宅した父親を加えた三人で麻婆豆腐の皿を囲んでいた。

 その晩、リクはおれの家に泊まった。
 御連絡を差し上げておかないと。そう云っておれの父親がリクの家へ電話を掛ける。留守番電話に繋がった。時刻は十時過ぎだった。仕方無くメッセージだけは残しておく。リクからもメールで宿泊を知らせるとそれには返信があった。
「リク。お前さ、毎日疲れない?」
 和室で布団を並べて寝ていた。
 畳で寝たことが無いのかリクは「布団からはみ出しても落ちない!」と感激していた。この調子だと明日は大丈夫だろう。行く途中で制服に着替えさせないといけないからリクの家に立ち寄らないといけない。勉強道具も必要だ。
「いつもへらへら笑っててさ。もっと迷惑かければいいじゃん。親とか。せっかく一人っ子なんだし」
「それを云うならアサトくんだって毎日ご飯作ってあげてんじゃん。一人っ子なのに」
「おれの反抗期は保育園時代に終わったの。今はリクの話」
 隣の布団が、もそり、と動いた。リクがおれに背中を向けたのが分かる。
「無視すんなよ」
「……だって……じゃん」
「え、何」
「だって、恐いじゃん」
「恐い。何が」
「アサトくんは、そういうの無い? 学校をお休みしてる時にさ、ぼくは恐いんだよ」
「だから何が」
「ぼくがいなくてもあまり変わらないなって皆が気づいちゃうこと」
「……何だそれ」
「例えば親にだってすごく反発してさ、でも誰も構ってくれなかったら、とか。恐いじゃん」
 その時おれは、リクにも恐いものあるんだな、と暢気に考えていた。
「だからぼくは平気なんだ。本当に恐いものからは逃げてるから」
 おれは目を瞑った。
 洟をすする音が聞こえて、なんだ泣いてるのか、と訊ねる。
 鼻水が出てきただけ。リクが答える。
「じゃあさ、リクはおれのことも恐いのか」
 その質問に回答が来る。「恐いよ」。即答だった。
「何で」
「だってアサトくんは強いもん。誰より早く大人になれる人だもん」
 拗ねたようなリクの声に苛立ったおれはついに体を起こした。電気の紐に手を伸ばすけど届かなかったから暗闇の中でリクの肩を掴んでこっちを向かせる。突然の出来事に驚いたリクが毛布に隠れようとするのを剥がして妨げた。
 どうにも逃げられないと気づいたリクが声を上げる。
「だからアサトくんは色々ずるいっ」
「何が色々ずるいんだよ、お前そうやって云いたいことぼかすのとかナヨナヨしいところとかそろそろ改善しろよ、もう中学生なんだから」
 くまのぬいぐるみとか、と云いかけておれは口を噤んだ。
 あれだけはまだ奪っちゃいけない。リクに必要な物だ。今取り上げちゃいけない。
 おれの中に微かに残った冷静な部分が「だからそれだけは奪っては駄目だ」と自制を効かせる。
 かろうじてあれを否定することまではしなかった。リクは何か察したかも知れないけど、おれは云わなかった。
「……あ、悪い」
 その時、自然と口から漏れた言葉。
 自分がさっき云ったことに対してではなくて、リクの髪を掴んでいることに対してだった。そこまで怒ることでもないだろうに。
 病み上がりのこいつ相手に何やってんだ、おれは。これじゃ連れて来ないほうがマシだったじゃないか。
 その隙を待っていたようにリクが口を開く。
「アサトくんはぼくがいなくても平気だからアサトくんはずるい!」
「……リク」
「アサトくんはぼくを怒っても殴っても良いんだ、だってぼくはアサトくんに何されてもアサトくんのこと好きだもん!」
 その時、和室の襖がそろそろと開いて光が漏れ込んで来た。
「二人とも、静かに。うちの壁は薄いんだからお隣さんに迷惑だ」
 姿は見えないが声だけが聞こえる。
「……ごめんなさい」、おれが謝ると襖が再びそろそろと閉まった。
 リクの体から力が抜ける。
 父親の登場で毒気を抜かれた気分のおれは布団の上で胡坐をかいた。
「……買い被り過ぎだよ、リクはいつも。おれはそこまで完成してない。することも、無いだろうと思うし。あと、おれはお前を殴らない」
「……分かってる。アサトくんは優しいもん」
 お前の方が優しいよ。
 そのことは皆、クラスメイトだって教師だってきっとお前の両親だってちゃんと知ってるし、おれだって知ってる。
 そして、誰にでも優しくあることは誰よりも強くあることより難しい。
 だけどおれはそれをわざわざ口にはしない。おれがただ思っただけ。教えてやったりは、しない。
「なあ、リク。おれの秘密教えてやろっか」
「アサトくんの?」
「そう。おれはね、何かがなくなっても恐くないんだ。哀しいけど、恐くない」
「……どうして?」
「本当になくなっちゃいけないものは絶対なくならないからだ」
 そこまで神様は、いじわるじゃない。
 おれが布団に入ると隣の布団が、もそり、と動いた。リクがこちらに体を向けたようだ。
「いいね、それ」
「うん、いいだろ。やるよ」
「……ありがと。大切にするね」
 数分後、リクの寝息が聞こえた。
 なんて羨ましい奴だ。
 さっきの云い合いですっかり目が覚めてしまったおれは翌朝寝坊しないことを願いながら無理矢理目を瞑った。
 心臓がどきどきしてる。


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