五つ目の小石を拾い上げて顔を上げると、カーテンが開かれた窓辺にリクが立っていた。
 振り被っていた腕を下ろしたおれは「来い」と口を動かす。声は出さない。陽はまだ昇っていない。家や近所の人に気づかれても面倒だ。
 あいつにとっては夢の続きを見ている気分だろう。むにゃむにゃと唇を柔らかく噛んでは目をこすっている。
 おれはリクの眠気が覚めるのを待ってナイロンジャケットのチャックを引き上げた。
 窓が開く。
「アサトくん。おはよ……」
「黙って降りて来い」
 おれの言葉にリクがこくんと頷いて二階の窓からパジャマ姿を乗り出した。自転車に跨っていたおれは慌てて屋根の下に移動する。
「おい、普通は玄関からだろ、バカ」
 だがもう遅い。ナマケモノみたいに一階の庇にぶら下がったリクの下でおれは待機する。ふくらはぎが目の高さに来たと思ったら、リクはそのままずるずるとおれの腕の中に落ちてきた。
「……あれ。おまえ意外と軽いな」
 それはそうと急がなければならない。道の脇に倒した自転車を起こし、跨る。荷台に座ったリクが後ろから腕を回してきた。
「誘拐って簡単だな」
 いつもより重いペダルを漕ぎながら呟く。
 夜明け前の町は肌寒い。おれはさっき来た道を戻る。肩から斜めに提げた鞄はぺたんこだ。寝惚けているリクが勝手に中を覗き込んで「何も無い」と嘆いている。

 その家に着いたのはおれがリクを屋根の下で受け止めてから十分後のことだった。ようやく意識がはっきりしてきたリクを連れて門をくぐる。
「ねえ、ここ誰の家なの」
 自宅ではない他人の家に無断で上がっていくおれをリクは心配そうに呼び止める。玄関口で振り返ったおれは「来い」とだけ云って手招いた。リクは頷いてついて来た。
 玄関を上がってすぐ脇が台所でその奥に六畳の和室がある。年中出しっぱなしの炬燵はこの家の住人の布団代わりだ。禿げかかった白髪頭はさっきと同じ位置にあった。ようやく老人の姿に気づいたリクが声を上げる。
「あ……アサトくん、この人、死ん……っ!」
 おれは振り返ってその口を塞いでいた。状況を説明する。
「この家はおれが毎朝新聞配達している。そこにいるじいさんとは顔見知りだ。毎朝会うからな。今日はいつもと違う様子だったから部屋に上がらせてもらった。許可は事前から取ってる。って云うか、じいさんの方から頼まれてる。もしも郵便受けの前に自分が立っていない日があったらこの鍵を使って様子を見に来てくれ、と」
 おれはリクの顔の前でポケットから取り出した鍵を振って見せた。リクは、分かった、と云うように大きく頷く。おれは頷いて鍵をポケットに仕舞った。
「見ての通り、じいさんはもう死んでる。お前を連れて来たのは一緒に葬式するためだ」
 おれの言葉を聞いていたリクの目がじわっと潤んだ。こいつも顔見知りか、と訝ったおれはその意味に気づいて慌てて手を離した。ようやく呼吸が戻ったリクは二三度だけ咳き込んだ後で立ち直り、「なんで」と首を傾げた。
「老衰だろう」
「そうじゃ、なくて」
「何だよ」
「なんでぼくなの」
 おれは一瞬考えた後で云った、「そうだな。ちょうど家の前を通りかかったから」。
 リクが落胆したように肩を落とした。
「家族、いないの。おじいさん」
 そちらを直視しないよう慎重になりながらリクはおれの顎の辺りを眺めている。ん、と顎を引くと「そっか」と小さな返事が返ってきた。
 その後、おれとリクはじいさんのために葬式を挙げてやった。葬式と云っても傍らに正座して両手を合わせてやったくらいだ。じいさんの遺体を引き取る親戚のいないことは以前から話を聞いて知っていた。県外に住む子や孫とも疎遠になっているそうだ。毎朝新聞を届けに来る中学生だけが、束の間でも耳を傾けてくれる話し相手だった。
 その家を出る時、おれは初めてリクがそれまで裸足だったことに気づいた。窓から出て来たのだから靴を履いていないのも無理は無い。怪我しなかったか、と訊ねると、アサトくんは優しい、と云われた。
 優しい人間は寝ているお前を起こして赤の他人の死体を見せたりしない。
 おれは一人で向き合うのが恐かったんだ。
 母親の死を思い出すから。

 夜明け前のささやかな葬式から数時間後、おれとリクは葉桜の下を横に並んで歩いていた。あまり良い天気ではなかった。空は白いのに光が濁っている。雲も太陽も見当たらない。
「なあ、リク」
 おれの呼びかけに、隣を歩いていたリクは待ってましたとばかりに顔を上げた。いつにも増して無口だったから、余計に心配されてしまったんだろう。自意識過剰ではなくて、リクはそういうやつだとおれは知っている。両親の喧嘩が絶えない家で育ったこいつは相手の顔色に敏感だ。争うよりも折れるを好む。平和であるに越したことは無いと思ってる。そしてそれを手に入れるために自分を犠牲にしても構わないと考えてる。おれはリクが笑顔じゃない日に出くわした試しが無い。いつもどこかで笑っていた。義務みたいに。努力みたいに。昔から。何か願うみたいに。
「世界のどこかで毎日紛争が起こってさ、自分と同じぐらいの年齢とかさ、もっと小さい子、赤ちゃんとか、ばんばん死んでんの。勿論、大人もな。だけど、どうにかしてやろうとは思えないんだよ」
 いきなり何を云い出すのかと内心不思議がっているだろう。
 それでもリクは律儀に頷いている。
 ポケットに手を入れてスニーカーの先を見つめながら、おれは一歩一歩を踏み出した。視界の左端にリクのスニーカーが見える。おれのを真似て買ったやつだ。教室で斜め前の席に座るバスケ部のあいつには散々からかわれた。腹が立ったから「お前の名前何だっけ」と云ってやった。樺島だった。あ、そう。おれは答える。おれは自分に寄って来る人間の傷つけ方を分かってる。不思議なことにあいつはめげなかった。リクと同じだ。
(アサトくんの目はかっこいい)。
 いつかそう云われて蹴ってしまったことがある。おれは自分の細い目が嫌いだった。普通にしているだけなのに不機嫌なのかと恐れられる。かえってそれが都合の良いこともあったが、褒められる物でも無い物だ。
「自分に関係の無い人間っていっぱいいると思うんだけどさ、どこからどこまでが自分に痛いんだろうな。どの人までなら自分は助けてあげられるんだろう」
 どうしてリク相手にこんなこと。
 そうか天気の所為だ。
 先日は初夏のような陽射しだった。グラウンドで体育だったおれ達はジャージを脱ぎ捨てて額の汗を拭っていた。それが今日はどうだ。初夏に進むどころか先月あたりに後戻りした感さえある。二カ月後にはもう水泳が始まっているなんて思えない。
 おれは定規無しで直線を引こうとして結局ぶれてしまう手元みたいに、少しずつ少しずつ論点をずらしていく。
 ここで終えておけばまだ大丈夫。頭はそう分かっていたのに、口が裏切った。
「リクがもし独りで死んだら、おれが葬式してやる」。
 え、と驚いた声が耳に届いた。
 この遠回しな表現をどこまでこいつが理解しただろう。しなかっただろう。
 それは今じゃないだろうに。おれの目から熱いものが零れていった。それはたった一粒で、縁にも肌にも留まること無く、生まれてすぐに砂地に落ちた。草も花も生えていない砂地に。何の糧になるでもなく。無意味さそのものみたいに。何かを残すでもなく。
 独りで亡くなったじいさんの新聞受けには、ちゃんと新聞を届けたんだ。今日の日中にあの部屋は片付けられてその内しばらく空き家だろう。だけどまた届けてしまうかも知れない。
 母親が死んでからおれは一冊の絵本を手離さなかったと云う。生前の母親によく読み聞かせてもらった一冊だそうだ。父親に聞いた話だ。その絵本は今も押入れの奥にあって、取り出して眺めるようなことはもう無いけれど、開いたらきっとその時の思いが蘇っておれはまた子供に戻るだろう。それが分かるから開かない。いつか開ける日までは。
「ありがと。でもぼくアサトくんより先に死なないよ」。
 一瞬、辺りが鮮やかに色づいた気がしておれは顔を上げた。雲の切れ間から薄青色が覗いている。それは僅かな変化でしか無かったが、変化には違いなかった。
 だからアサトくんは何も心配しなくていいんだよ。
 リクが自信満々に答える。
 おれが何を心配してるって。
 そう問いかけようとしたところでおれは後ろから飛びついてきた人物に肩を抱かれた。
「おっす」
 樺島だった。
「……ばかしま」
「樺島。お前ら朝っぱらから何いちゃついてんだよ」
 おれとリクを見比べてはにやついている。
「……誰が、」
 反論しようとしたおれの左腕をリクが取る。
「ねっ、アサトくん」
「何が、ねっ、なんだよ」
 叫んだおれが腕を振り払ってもリクはへらりんへらりんと笑っている。
「ねっ」、樺島がリクの真似をして右腕に掴まる。今度こそ鳥肌が立って振り払った。
 人にはそれぞれ向き不向きというものがある。おれはそれを身を持って体感したのだった。

 帰りにあの家の前を通りかかると、住人のいなくなった部屋から家具が運び出されているところだった。数少ない家具が積まれた軽トラックから少し離れた場所に突っ立ち、ぼんやりとその様子を眺めていたおれはいきなり肩を叩かれて驚いた目を向けた。スーツ姿の男が立っていた。
「新聞配達の少年というのは、きみのことだね」
 警察。ではなさそうだ。保険会社か。葬儀屋か。
 考えをめぐらせて黙るおれの前に男が薄い紙袋を差し出した。駅前書店のロゴが入っている。中身は本のようだが。
「……あの、これは」
「裏返してごらん」
 云われた通りにするとそこには「新聞配達の少年へ」と書かれていた。少年へ、か。おそらくじいさんの筆跡だろう。そういえばおれは毎朝顔を合わせるじいさんに名前も教えていなかった。
「でも、どうしておれが新聞配達だって分かったんですか」
 確かに「少年へ」とは書いてあるが、それだけで推測できるものだろうか。
「この家の前で立ち止まったのはきみだけだよ」
 そうですか、とおれは静かに頷いた。続けて男に視線で彼の素性を問いかける。男はじいさんの子供だった。親の訃報を受け、飛んできたらしい。
 なんだ。
 おれは内心騙されたような気分だった。
 なんだ、ちゃんと大丈夫じゃないか。なあ、じいさん。

 公園のブランコに座って紙袋を開けると中から出てきたのは絵本だった。ぱらぱらと中をめくる。やっぱりあの絵本だった。おれは自分のことをあのじいさんにどこまで話したか思い出そうとした。母親がいないことは云ったはずだ。だけど、絵本のことまで。しかもそれをわざわざ買いに行ってくれたとは。どこかで記憶違いが起こったのかも知れない。おれはあの絵本を欲しいと云ったわけじゃなかったのに。
 それとも。
 おれは砂場で遊んでいる子供達に目を向けた。若い母親が腕まくりをして一緒に山を作っている。楽しそうだった。
「だーれだっ」。
 その時ふと視界が遮られた。
「リクだろ」。
 即答するとリクはつまらなそうに正体を現した。
「何で分かったの」
「今時お前くらいだからさ」
「アサトくん、何読んでんの?」
 おれの皮肉に気づかずリクは頭上から絵本を覗き込む。リクの手が握ったブランコの鎖が揺れた。おれは足の裏に力を込めて体を固定する。
「ぐるんぱだよ」
「ぐるんぱ?」
 頷いたおれは最初のページに戻って朗読を始めた。リクは後ろで立ったまま聞いている。時々、えっ、とか、あっ、とかおかしな相槌を打ちながら。最後のページを読み終えて、おしまい、とおれは絵本を紙袋に仕舞った。
 すっきりとしていた。体が軽くなったようだった。
「さ、帰るか」
 立ち上がったおれの頭がリクの顎に直撃する。
「痛っ」、二人同時に声を上げた。
 リクが顎を、おれが頭を押さえて蹲る。砂場から笑い声が聞こえてきて、絶対におれ達のことだと思った。まぬけすぎる。
「アサトくんのばか!」
「お前だ、ばか!」
 夕焼け空の下、公園で、おれとリクは他愛も無いやりとりをしながらこの世に生きていた。


100407