リクの親が二人とも帰って来ない日があった。
 おれ達が小学校低学年だった頃。理由は分からなかったけど、彼らはたまに外泊した。以前にもそういうことが何度かあったらしいがリクはそれを当たり前だと思っていたようで、一人でご飯を食べて一人でお風呂に入って就寝時間の九時になるとちゃんと部屋のベッドに潜って翌朝まで熟睡した。リクにとってそれは「たまにある当たり前のこと」に過ぎなかった。
 概念というものは人を救いもするし人を陥れもする。
 ある日クラスメイトから「一人で寝るの? 夜が恐くないの?」と訊ねられたリクはその日から一人の夜が恐くなって眠れなくなった。
 一度踏み越えてしまった境界線は跨ぎ直してももう元に戻れない。
 真新しいノートに書いた文字をどれだけ丁寧に消してもそれはもう二度と真新しいノートとは呼べないように。一滴の色を落とした水が透明に見えてもそれは絶対透明ではないように。傷は塞がっても縫合跡が微かに残る白い皮膚みたいに。
 やがていつか成長する。
 ほんの小さなきっかけがもくもく成長してある日大きな魔物となり、真夜中に飼い主を不自由にする。
 恐怖というものを知ったリクはおれの家に泊まりに来ることがあった。
 くまのぬいぐるみはその時から確かに持っていたような気がする。リクはそれをぬいぐるみと思っていないように話しかけたり椅子に座らせたりした。
「リク。そいつは食べない」。
 おれが云うとリクは「ぼくが見てないところで食べてるのを見た」とむきになった。矛盾を問い詰めて窮地に立たせることは簡単そうだったけどおれはそこまで辛辣な幼馴染になりたくなかったからそれ以上くまについては触れず黙っておいた。
 あの頃からおれはリクを少しだけ誤解していたのかも知れない。

 畳の上に寝そべって借りてきたDVDを一緒に観ていたリクの視線を感じたのは、少年の父親がナチスに見つかって射殺された瞬間だった。それまでも何度か危ないシーンはあったのだけどなんとか堪えてきた。選択ミスったな。明らかな間違いを犯した自分をちょっとだけ呪いつつ。
「アサトくん、泣いてるの」
 驚いたリクの声が聞こえてきておれは顔を背けた。
 テレビの画面なんかお構いなしになってリクがおれに構ってくる。
「アサトくんが、泣いてる」
「おれが泣いてるのがそんなに嬉しいかよ」
「うん。嬉しいけど?」
 満面笑顔のリクを見て、あらら、と首を傾げたくなった。こいつは。
「アサトくんにも人の心があるんだなって分かるって云うか」
「お前な」
「だけどアサトくんは毎日そうじゃなくても良いんだよ。だってアサトくんが毎日笑ってたらぼくはあんまり笑わないと思うもん」
「いいから、どけ。リクさ、ちょっと重くなったんじゃねえの」
「そうかな」
「甘い物ばっかり食べてんだろ」
「甘い物はあんまり好きじゃないよ」
 映画は進行しているのにおれとリクはほとんど観ていなかった。じっと蹲ってエンドロールを待つような、そんな気恥ずかしさにどちらも耐え切れなくなっていたんだと思う。どこかで茶化して空気を取り戻さなきゃいけないみたいな。今回はおれの涙がその役目を果たした。不本意ながら。
「ぼくはアサトくんの恐い物になりたい」。
 リクの顔が一瞬すごく大人びて見える。普段が言動共に幼稚だからちょっと口を引き締めて目を細くするだけでそれはもうかなり大人びて見える。本当は年相応の顔つきに揃っただけなんだとしても。
「は、」
 おれが訊ね返すとリクの瞳の上部が水色に光っていた。画面の光を反射しているからだろう。おれは顔を上げて雪が降る光景を確かめる。一面の雪。あるいは、花びら。再びリクの瞳に目を戻すとそこにはもうさっきの水色は映っていなかった。かわりにいつもの瞳があった。自分の瞳よりも見慣れた瞳。
「だから。ぼくはこれからもアサトくんの恐い物になりたいんだってば」。
 リクが宣言して体勢を崩すからおれはわけが分からないまま「重い」と「どけ」を繰り返し続けるしか無かった。
 リクの首筋からは甘くてあったかい冬の飲み物みたいなにおいがしていた。
 その時おれは、リクがある日クラスメイトに云われて気づいたみたいに、リクに気づいてしまったんだと思う。おれが無視できないおれ自身に。

「ね、いいでしょう」
「駄目だって云っても何も変わらないだろ」

 おれがリクをそこまで邪険に扱えなくて。
 リクがおれをくまよりぎゅっと抱き締めたから。
 あの映画の結末は今も分からない。
 いまだにどちらも何も分かっていない。

100419