なぶるような雨が窓を叩いている。
 何かが破裂するようなバチバチという音で目が覚めたおれは時計を確認してふと今が朝の六時なのか夕方の六時なのか分からなくなり何か手がかりを探そうとした。朝の六時だとしたら寝坊なわけだし夕方の六時ならいつから寝たのか思い出せない。
 布団を出たおれは襖を開けて驚いた。
 リクが、いた。
 居間のテーブルに上体を突っ伏して眠っている。制服姿のリクは当たり前のようにそこで眠っている。アルプス一万尺の歌詞「アルペン踊りをさあ踊りましょう」の直後の腕の形、をして、右上腕部に右頬をくっつけて、おれのほうにつむじを見せながら眠っている。
(何やってんだ、こいつは)。
 バチバチ音の正体はやはり雨だった。ここは孤島の絶壁に建つ家かと思うくらい四方八方から雨が打ち付けている。さっきは、寝室から。次は、台所から。巨大な筆で乱暴に書き付けられているような、小石を一面に投げつけられているような。
 と、雨が一気に止んだ。窓の外を見たおれはベランダから射してくる初夏のような陽射しに驚く。眩しさに目が眩みそうになっているとリクが体を起こした。
「アサトくん」。
 は、とおれはおかしな返事をしてリクの顔を見た。目の下からほっぺたにかけて強く擦ったように赤くなっている。眠り方のせいもあってか右側にそれは顕著だ。まあ、それはいいとして。
 リクが涙を零した。泣く、というのではなくて「涙を零した」。零れた、と云った方が正確かも知れない。
 おれは壁時計を見上げる。時刻は六時ちょうどだ。朝なのか夕方なのかはまだ分からない。
「……おい、リク」
 肩を小突くとリクが驚いたような顔でおれを見上げた。云うまでもないことだと思うがおれの手には触れたものをすべて石に変える能力などない。しかしリクは見事に硬直した。
「……やだ、アサトくん、どうして生きてんの」
「おい。お前がここにいる理由を先に説明する気は無いのか」
 おれが睨むつもりで目を細めるとリクは少しずつ全身の筋肉を緩めていくようだった。
「……ほんとに、アサトくん?」
「残念なことにな」
「……ぼくの名前は?」
「片瀬陸だろ。違うのか?」
「……違わない。合ってる」
 困惑に苛立ちが混ざってくる。
 おれはリクのほっぺたを摘んだ。
「なあ。何泣いてんだよ、」
 ほっぺたを摘むとまた涙が零れ落ちた。おれの親指に落ちる。それはまだ熱い。リクの内側はもっと熱いんだろうなと思う。こいつについておれが知らないことは、予想でしか知りえないことは、まだたくさんある。
 おれは人前で正直に感情を発露させるこいつの神経を疑う。たとえその人がおれであってもだ。保育園以来の幼馴染であっても、だ。へらへら笑う。しくしく泣く。むっと怒る。それだけじゃない。パジャマ姿で家までやって来るようなのも、くまのぬいぐるみを隠そうともしないのも、学校でもいつもと変わらず甘えてくるのも、幼稚な癖を直そうともしないのも、遠慮を知らないのも、勝手に人の家に上がりこんでくるのも、こうやって一人で涙を溜め込んでわけが分かんないのも、全部、キライ。
 おれが黙っているとリクが云った。
「アサトくんは死んだんだよ」。
 おれは一呼吸置く。
「お前の見た夢の中でな」。
 リクは、うん、と頷く。
「……そんな夢を、見たんだ」。
 なんだ、夢か。
 一瞬おれは幽霊なのかとか心配になったじゃないか、一瞬だけな。
 だけどおれには分かったことがある。おれが死んだら、リクがどうなるか。それはずっと予想できたことかも知れない。おれが死んだらリクはたぶん立ち直れないだろう。自惚れじゃない。これまでの経験から、きっとそうだろうと分かるんだ。試験を重ねて開発される薬品みたいに、日々を重ねて把握できた事柄だから。
 おれは少しずつ思い出した。
 リクは宿題をしに家へ来た。何が原因だったか、途中で喧嘩になっておれは寝室に閉じこもった。そして、驚くべきことに、寝た。寝てしまったのだ。リクはその間ここで寝た。驚くべきことに、二人とも、寝た。
「おれなんか死ねば良いって思ったんだろ」
 喧嘩の原因を思い出そうとする。食べ物の話だったような気もする。とにかく大したものではなかったことは確かだ。きっかけや発端っていうのは何においてもそうなんだけど。大したことはない。ちょっとしたズレだったり、些細な事実だったり。事件だって戦争だって考えてみれば「おや?」ってことばっかりだ。小さなことだったんだ。その証拠におれは何も思い出さない。
「……だからそういうバカな夢なんか見んだよ、ばか」、頸の後ろに手を置くとリクは子供みたいにしがみついた。本気なのかふざけているのか分からない。おれのへその上にリクの顔がある。
「アサトくん、すき」。
 くぐもった静かな声だった。
 真摯だ。
 おれはリクが嘘を吐かないことを知っている。
「ああ、分かってるよ」。
 おれは手を体の横に垂らして答える。
 リクが洟をすすった。何か云ったようだが聞き取れない。最後に少し笑っていた。分かってない、とか愚痴ったんだろう、どうせ。それすら分かってるっての。
「でも、やっぱり、子ヤギじゃないもん」
「は?」
「アサトくんが間違ってるんだもん」
「何が」
「子ヤギの上では普通踊らないもん」
「……あ」。
 喧嘩のきっかけを今思い出したおれは溜息を吐いた。
「……うん、おれが間違ってる」。
 静電気を恐れるみたいにおれはもう一度リクの頸に触れようとする。
(さわってもいいんだろうか)。
 指先が震えていることに気づかされる。
(いや、おかしいだろう、今のは)。
 舌打ちしたくなるような矛盾を打ち消せなくて、おれはリクの頸に触れる。
「それはおれが悪かったな」。
 しばらくするとリクが「いいよ」とおれを許す声がした。

 夢で見るようじゃ惚れようが浅い、ほんとに好きなら眠られない。

 アルプス一万尺には二十九番まで歌詞がある。
 これは十四番だ。

 まちがってる。とか。まちがってない。とか。
 その分類がもう、マチガッテル。
 リクがしているみたいに、おれもリクにしたら良い。
 頭の中では分かっていても、手はまだ宙に浮いたまま。
 踏み出すきっかけを、今日も待ってる。

100421