ヴァンパイアと暮らす




 虫さされに爪を立てている感じ。
 ヤクルト容器の底に犬歯で穴をあけて、そこから飲んだりしていない? あの程度の感じ。え、そんなことしない? 
 まあ、とにかくあまやかな吸着力。それに、それよりも何よりもこの姿勢が理想なのだと思う。
 ぼくは天井に貼った銀河図を見上げながら、冷たい背を撫でた。
「鉄が足りない。もっと色の濃い野菜を食べろ」
 ぼくの首から顔を離したヴァン・リーはそう零した。
 大きく黒い瞳の輪郭は、紺青の絵の具に水を混ぜて滲ませた時外側に生じる色で縁取られている。下向きの睫毛は長く、眠そうに見える。見える、というだけでなく眠いだろう。わざわざぼくの生活リズムに合わせている。
「健康診断をありがとう」
 こちらも精一杯の皮肉で返すがヴァン・リーには通じない。本当に感謝されているのだと思ったらしく、満足そうな顔をしてベッドを下りた。
 噛み跡はすぐに消える。唾液の持つ治癒作用が働くのだ。
 ぼくが当然のように学校へ行く準備を始めるとヴァン・リーはまた不機嫌そうな顔になった。見て見ぬふりをする。内心では嬉しくてたまらないのだけれど。
 ヴァンは基本的に夜しか活動することができない。しかしリーは環境に順応する能力をちゃんと持っていた。と云っても、帽子とパーカーなしに白昼の通りを歩くことはできない。
「今日は何時に帰ってくるんだ」
「いつもと同じ。三時過ぎかな。ゲームしていて良いよ」
「ふん。ゲームか」
 ヴァン・リーはパソコンの電源を入れるとベッドからタオルケットを持ち出してくるまった。
「寒いの」
「いや?」
「じゃあ何で」
「これは、お前のにおいがするからな」
 途端に学校を休みたくなった。
「駄目だ」、ヴァン・リーは時々ぼくの心中を察する。察する、というよりも、正確に読み解く。
 ヴァンに特有の性質であるのかそれともリー個人の才能なのか。人間も機械だと云ったのは誰だっけ。本棚の中の誰かだろう。きっとデータ化の可能なメカニズムがあるんだ。永遠に近い生を生きているヴァン・リーにとっては感情の揺れの原因や程度の予測など容易いことなのかも知れない。感情って割と後天的なものではないだろうか。こういう時はこういう顔をしなきゃならない、ああいう時はああいう気持ちにならなきゃいけない、って、周囲の大人の反応や同年代の付き合いの中で学び蓄積していく。確かに人間は不可解な神秘などでなく、機械化されうる学習物質なのかも知れない。とすると、人工知能を持ったロボットがいつか人と同じように、哀しくなくてもふと涙を零したり、そういう繊細な感情の表現をすることだって可能なんじゃないだろうか。
 ぼくはここまで考えてふと、ヴァン・リーは数百年生きているわけじゃなくつい最近できたアンドロイドかも知れないな、と思った。 「おれの顔に面白いことが書いてあるのか。行くなら行け。さもないと遅刻するぞ」、ヴァン・リーに声を掛けられぼくは我に返った。
「うん。あのさ、一つ訊いて良い」
「訊くのはお前の自由。答えるのはおれの自由。御自由にどうぞ」
 拗ねているな、と思った。
 何て分かりやすいんだ、くそ。
「リーは、本当はヴァンパイアなんかじゃなくて、アンドロイドじゃないの」
 パソコンのデスクトップに先週の土曜に行われた気球フェスティバルの写真が映し出される。薄暗くした部屋の中で、そこにだけ色が凝縮してしまったような感じだ。ぼくのタオルケットを肩に掛けたヴァン・リーは「これは何だ」と訊いてきた。
「訊くのはリーの自由。答えるのはぼくの自由。じゃあ、行ってきます」
 後味の悪い別れ方は望まなかったが、そうなってしまったのだから仕方がない。
 ぼくがまさにドアに手を掛けて出ようとすると、ヴァン・リーが立ち上がる気配があった。
「お前には分からないだろう。約束の束縛力が」
「何。ぼくは今から学校へ行くんだけど」
「約束は簡単に破れるし、破ったって良い。破ると一口に云っても、形は様々だ。当事者が意図的に破ろうと思わなくても、例えばこの世を去れば基本的に破られる。果たされない、という形で破られる。でも、だからと云って誰も約束を結ばなくなるか?・・・結果的に、たくさん嘘を吐かれるのは長いほうの命で、たくさん嘘を吐くのは短いほうの命なんだ。だからおれは、誰かに優しくすることができない。・・・ごめん」
 長身のヴァン・リーが小学四年生のぼくに頭を下げている光景はいびつだ。
「うん。ぼくもごめん。帰ったら、一緒にパズルしよう」
「ああ。あの、一枚の絵をばらばらにしてまた戻すというくだらんゲームか。ふん、してやっても良いぞ」
「殴られたいの」
「・・・何故だ?」
「ううん、良いよ、もう。行ってきます」
 ぼくは出がけにもう一度だけヴァン・リーを振り返ったが、「・・・何故だ?」と呟きながら切ない顔をして立ち尽くしていた。
 学校へ行く気が失せる。
 亡霊に過ぎない、と云い聞かせ無理に脚を動かした。
 ぼくはヴァンパイアと暮らしている。

060917