顔を上げるのが、怖い。
嫌でも世界が目に入るから。
世界は鍵とあらば何でもこじあけたがる。
もう少し、黙って、脈のありかをさぐらせておいて。
頬に触れる首筋の温度が珍しく昏睡よりも心地良い。
そうする間、おれはどこまでも満たされてゆける。
欲張って余計に吸血した赤色が、二人の裸を伝って闇に落ちる。
追って這わせた指先は忽ちにして当初の目的を見失う。
この戯れを光が編む。
どんな額縁にも収まらない。
きっと記憶にも残らない。
ただ、事実だけ。
銀。
ああそれはおれのことだっけ。
銀。
また呼ぶから今度は呼び返す。
リー。
ヴァン・リー。
続けざまに。
すると相手は安心したように目を閉じる。
出会ってから今まで、どれだけの血をお前に与えただろう。
きっと浮かべるくらい。
じゃあ次の言葉はどっちの権利だろう。
いくなよ、
勝手にひとりで。
口にすべくは、誰だろう。

 


ヴァンパイアと争う




 午前一時。勤務先であるラボラトリーから帰宅したおれは朝八時からのネクタイを緩めながら、ソファに埋もれるリーの姿を見やった。
「寝てばかりいると太るぞ」。
 反応が無い。やはり寝ているよな、と近寄って見下ろすと明らかに待ち構えていた瞼が開いた。
 抱えていたクッションをさらに引き寄せたリーはおれが略奪者であるように睨む。待て、あきらかに供給者だろう。
「いらねえよ、そんなクッション」。
 発言が幼稚に過ぎるのも疲労が原因だろうか。これじゃ単なる八つ当たり、いや、思春期の子供の反抗期じゃないか。
 今日は研究手術の途中で睡魔に襲われた。当然持ち直したが、助手の一人には悟られたかも知れない。やはり後で問題にされるだろうか。昇進を狙う連中の、憂さ晴らしの種を提供したくらいで済むなら万歳だが。
「素直にただいまと云えないのか」。
 リーは家にいる間、おれの服を勝手に着る。おれの体格がリーを下回る時代はそんなことはしていなかったが、中学から高校にかけて訪れた成長期で一気に上回って以来、そうだ。
 袖や裾がやや長めであるほうが寛げるらしい。
 翌日着る予定だったワイシャツを皺まみれにされた件以来、着なくなったシャツをリー専用として与えてやった。そんなのじゃなくてちゃんと買ってやるから、と買い物に出かけてもリーは納得しない。店で売られている新品は銀のにおいがしない、と真顔で理由を述べるから困る。無神経で、困る。その日は外出用の帽子なんかを買って帰宅する。リーは御満悦だ。どんな帽子もよく似合う。自身でそれを分かっているのかいないのか、リーには帽子へのこだわりがほとんどない。何を装っても似合うからだ。御満悦時のリーは、認めたくないし後生云ってやるつもりもないが、可愛い。ちょっと何かを指摘しただけで仏頂面になったとしても。
「ああ?」。
「帰ってきたら、ただいま、だろうが」。
 口ではかわいくないことを云っていようが所詮はおれの着なくなったシャツを愛用しているだけの同居人に、どうして本気で怒れるだろう。同僚に揶揄されるよう、確かにその通り、おれはリーを猫かわいがりしている。時に正反対に見える言動で。
「その前におかえりなさいと云えよ。居候の務めだろう」。
「居候ではない。あくまで同居人だ。それと、おかえりなさいはただいまより後であるべきだ」。
「いや、ただいまが先だろう」。
「だから、ただいまが先だと云っているだろう」。
「・・・あ」。
「・・・疲れているのだな、銀」。
「ああ、くそ」。
「休め。明らかにやつれている」。
「余計な世話だっての」。
 鬱陶しがりながらも体はふらふらとソファに倒れ込んだ。場所を開けてくれたリーは、体を起こした際額に垂れた髪を邪魔そうにかき上げた。
 カーテンを引いた薄暗い部屋だが目が見えるということは反射する光があるということだ。それら光をひとところに集めているみたいにリーの髪は霧のような白銀色を纏っている。極めて薄いヴェールをかぶせたみたいに。
「次のステージへ進んだぞ」。
 何かと思えばゲームの話だ。
 簡単だったがな、と心持ち胸を張るリーが褒賞を待ち受けているように見えたがおれが触れてやろうと手を伸ばすと嫌悪感をにじませた態度で振り払われた。
「・・・反抗期なら仕方が無い」。
 諦めたふうを装い立ち上がろうとするとリーが裾を掴んでくる。
「何だよ?」。わざと低い声を出すとリーは一瞬怯んだように視線を泳がせた。
「珍しいな、云いづらいのか。だから、何だよ?」。
 選択肢を提案してやる優しささえおれには無い。だって若いのだ。普段から高慢で素直じゃない同居人が下手に出ているとあらばそれに乗ってやらないほど不感症じゃない。大人が子供にするみたいに都合を考えない手つきで頭をわしゃわしゃと撫でる。癖のつかないリーの髪はたいして乱れないからもっともっとと繰り返す内におれのほうが欲情した。
「・・・ただいま」。
 こちらから折れてやると、ばか、と耳元で聞こえた。息は血のにおいがする。
「本当にばかだ。銀は」。
「ばかばかって繰り返すなよ。何だよ、おれが何をした?」。
 え、と問い詰めながらリーの顔を片手で掴んで揺さぶった。細い顎。おれの方が上回った体格。
 どうしてあの頃はあんなに、リーのほうが大人であったんだろう。
 どうして今はもう、おれの成長をリーが追ってこないんだろう。
 分かっている。
 分かり過ぎて、分からなくなってるだけなんだ、もう。
「銀は、何もしない。だから、ばかだ」。
 なんなんだか。
 どけ、とソファから突き飛ばされフローリングに仰向けのおれをリーが跨ぐ。
 捨てられた、と嘆いていると緑茶と書かれた緑の缶が差し出された。
「飲め」。
「はい?」。
「体に良いらしいぞ。NHKの女がそう云っていた」。
「ああ、はいはい、ありがとう」。
 健康番組でも観たのだろう。
 おれが体を起こして緑茶の缶を手に取るのを、栓を開けて中身をきちんと腹に流し込むのをリーはじっと見つめている。
「猫みたいだな、リーは」。
「飼ったことないくせに分かった口をきくな」。
「え、あるよ?」。
 おれのさりげない返事にリーは目を丸くした。
「そうなのか?」。
「ああ。リーがこの家に来る前だから、小学校上がったばっかりとかそれくらいの時かな」。
「それならそうと早く云え」。
「だって、忘れてたし」。
「ああ、忘れるのはお前の特技だからな。ならば仕方が無い」。
「おい」。
「どんな猫だ」。
「白と黒。牛みたいな模様だったな」。
「かわいかったか」。
「そりゃもう」。
「そいつは死んだのか」。
「登場させて間もなく殺すなよ」。
「だが、いないではないか」。
 それとも母上の正体が実は、と勘繰り始めるリーをおれは制止した。どうやら日中はテレビ三昧らしい。太るぞ、ともう一度付け加えるとリーは首をかしげた。話の流れが唐突なのだから無理も無い。からかうおれはリーの体質がそう簡単に劣化しないことをすでに知っている。ドクターとしても、同居人としても。
「朝、起きたらいなかった。母さんが親戚のところへやったらしい」。
「そうか」。
 リーは敏い。これ以上つっこんでくることはない。
「ならばおれは銀にとってもっとも息の長い猫なのだな」。
 ヴァンだろ、と訂正するのはあまりに芸が無いのでおれは顎に手をあてて品定めするようにリーの容姿を上から下まで眺めた。
「猫じゃない」、フローリングの上に垂れたリーの髪が渦を描いている。休憩時間に飲んだカプチーノの模様を思い出す。
 情けない。
 もう疲れたんだ、と弱音が口から漏れそうになる。自分で選んだ道、自分が望んだ今じゃないか。リーに云ったところでどうなる。
 銀、と呼びかけるリーの声がこちらをいたわってくるように聞こえるのはおれの妄想か現実の同情かそれともただの気の迷い。カプチーノの模様が、フローリングに円を描くプラチナブロンドが、何も意図せずしてそうあるように。
「猫じゃなくて、ヴァンだろ」。
「ひねりが無い」。
 即答だった。
 リーの手刀が頭を直撃する。
「いてっ。今ので壊れたかもしんない」。
「銀など一度壊れればいい」。
 眠りかけてくれていた頭痛が再発してしまった。じんじんと響くように痛むこめかみを手でさすってなだめるようにしながらおれは、壊れればいい、と吐き捨てたリーの真意を探ろうとこっそり窺うが正面からは見ることができない。
 見惚れるような横顔にしか、お目にかかれない。
 吸血する行為とされる行為が日常茶飯事なおれたちだから、リーがおれの膝の上に跨り肩に頬をあてたまま喋るのも退屈なおれが触り心地の良いその髪に手を差し入れては抜いて持ち上げては少しずつ散らせて光の反射を愉しむのも日常茶飯事だ。
 これは溺愛と呼べる代物だろうか。知らない。
 甘さを求めないという甘さで、おれとリーはこのまま眠ることもある。

111003
ギン、青年期。