銀、お話があるの。ここに座って。
 その日小学校から帰ったぼくは玄関の鍵が開いていたことにまず驚き、家の中に入るとリビングのソファじゃなくてダイニングのテーブルにお母さんが座っていたことに驚いた。そこに座っているということは大事なお話だということだ。ぼくは返事をしておいて一度、部屋へ鞄を置きに行った。制服を脱ぎ変えながら、さっきのお母さんの真剣な声を思い出す。
「お話って、なんだと思う」。
 天井に貼った銀河図に話しかけるけれど答えはそこからじゃなく階下のお母さんから聞けるはずだ。
 ぼくは緊張しながら階段を下りて行った。


 


ヴァンパイアを引き取る




「ヴァンをね、もらおうと思うの」。
 真正面のお母さんがぼくの目をまっすぐに見て云う。
 ヴァン、とぼくは繰り返した。
 お母さんは、頷く。自分のお母さんだけど綺麗な人だなと思う。ぼくが小学校に上がってからというもの、顔を合わせる時間が減ったからだろうか。ぼくの知らないところでお母さんは少しずつ、もう大人だけど少しずつ成長していて、だからぼくが知っているお母さんと別人のように感じて時々どきどきすることがあるのかもしれない。
 母親似だと周囲の大人から云われる度、そうだろうかと首をかしげた。
 ぼくは、似ていないと思う。
 ぼくは、誰とも似ていない。
 だから、そう云ってくる人はぼくを騙そうとしているんだと思った。ぼくがあんまり誰とも似ていないから、優しい気持ちで、そんなことを云ってくれているんじゃないか、と。誰に教えられたわけでもなく、そんな事実を裏付けたりほのめかしたりするような出来事やきっかけがあったわけでもないけど、いつの間にか勝手にぼくはそう感じるようになっていた。
「ヴァンって、なに?」。
 ぼくがまたも首をかしげるとお母さんは、あら、という顔をした。お母さんの職場の名前が、ヴァン・ラボラトリーというのは知っているから、そこに関係することなのだろう。ヴァン・ラボラトリーという場所の名前を聞くと、みんな目を輝かせる。クラスメイトのほとんどに云わせればぼくのお母さんは「かっこいい」うえに「すごい」んだそうだ。お母さんをほめられて嫌な気はもちろんしないけれど、そこがどういった場所なのかよく知らない手前、上手に自慢することもできなかったし、得意に思うこともできなかった。クラスメイト達のほうがそこをどんな場所なのかよく分かっているようだった。ぼくは羨ましがられている側なわけで、そんな彼らに「そこってどんな場所?」なんて訊ねるわけ、にはいかなかった。お母さんは「いつかその時がきたらちゃんと話します」と云っていたのでぼくはその時を待ち続けた。
 もしかすると今が、その時なのだろうか。
 ぼくはようやく気づいて背筋を伸ばした。
「ヴァンっていうのは、人間の変異種よ。見た目はほとんど私達と同じ。主食は他人の血液」。
「蚊みたい」。
「痒くならないわよ」。お母さんは笑った。
「それから、私達と同じようなご飯も食べる。言葉も喋るし、意思疎通はちゃんとできるわ。あるいは、ちゃんと、できない。人間同士だってそうでしょう?」。
「じゃあどうして変異種っていうの」。
「私達に比べて寿命が長いのよ。とっても」。
「どのくらい」。
「・・・それはまだ、分からないの」。
「分からないほど長いの?」。
「そうね」。
「・・・ふうん」。
 お母さんでもまだ分からないことがあるのか。
 ぼくはヴァンという生き物は得体が知れなくて怖いなと思った。そいつが家へ来るという。
 しかも、
「銀に任せようと思うの」。
「ええっ」。
 てっきり、お母さんが見てくれるものと思っていた。
「血も銀の血で登録したわ」。
 そこでぼくは今朝、出発前にお母さんから採血されたことを思い出した。健康診断か何かだろうと特に気もしていなかったがどうやら別の目的があったらしい。
「登録って、なに。ぼくの血で、ってなに」。
「だから、ヴァンの食事よ。リーにはあなたの血がぴったりだと分かったの。これまで何件か申請があったんだけどちっとも相性が合わなかったのよ。稀なケースね」。
「リー?」。
「彼の名前」。
「彼?」。
「性別は男」。
 ぼくは頭の中でイメージを膨らませる。血を吸う男。なんだか怖い。強くて意地悪だったら、どうしよう。
「だいじょうぶよ」。ぼくの心配を読み取ったみたいにお母さんが云う。
 自分の膝を見下ろして考え込んでいたぼくはお母さんの優しい声でほっとしたが、顔を上げてすぐにぎくりとした。
「万が一危害を加えることがあれば処置できる決まりもあるから。ね?」。
 すぐに仲良くなれるから、と。
 ぼくはそんな言葉を期待していたのに。
 
 翌朝、教室にいつもより早く着いたぼくは四月に同じクラスになってからというもの一度も口をきいたことのない女の子に話しかけた。
「おはよう、ハヤシさん」。
 ハヤシさんは家が遠い。通学のために毎朝お母さんに送り迎えしてもらっているのだけれど、お母さんの仕事の都合で朝が早いから、常に教室へ一番乗りだと噂を聞いた。ハヤシさんが他のクラスメイトと仲良く話している光景はあまり見たことが無い。だけどかわいかったから、ハヤシさんの噂はいつもどこかでささやかれていた。
「おはよ」。
 無視されるかな、と思ったけどちゃんとあいさつが返ってきた。素っ気ない一言だったけどぼくはすごく嬉しくて今すぐ誰かに自慢したくなる。
「ねえ、ハヤシさんってどうしていつも本読んでるの」。
「時間があるから」。
「どういう本?」。
 ぼくは題名を教えてもらったけれど覚えにくかったので忘れてしまった。少なくとも、現在国語の授業で扱っているような内容でないことは確かだった。
「ふうん。頭いいんだね」。
 ほめたつもりだったのにハヤシさんの表情がこわばった。
 あっちへ行けと云われたらどうしようと思い、ぼくは話題を変えることにした。そもそもそのために早く出てきたんだった。
「ねえ。ハヤシさんの家にもヴァンっている?」。
 一度、聞いたことがあった。これも噂だったけど。その時はヴァンという呼び方ではなかったけれど、昨日お母さんからぼくの家にもヴァンが来ると聞いて、ああこのことだったのか、と思い当たったのだ。
「いるけど?」。
「やっぱり。なんていう名前?」。
「ロラン」。
「あのさ、今度ぼくの家にも来るんだよ」。
「ふうん」。
「リーって名前なんだって」。
「そう」。
「ヴァンの主食ってぼくたちの血なんだってね。それってどういうふうに与えるのかな」。
 ぼくのその質問にハヤシさんは本から顔を上げた。
「ねえ。それって、朝じゃないとできない話?」。
「え?」。
「みんながいる時にはできない話なの?」。
 ぼくは言葉に詰まった。ハヤシさんが何を云わんとしているかが分からない。
「ご、ごめん」。
「どうして謝るの」。
「え、だって、なんか、怒ってる、みたいだし」。
 ハヤシさんは本を机に置いた。今度こそ怒っている。
「自分が悪いことをしたと思った時だけ謝るようにしたら?」。
 ぼくは、はっと顔を上げた。ハヤシさんってこんな子だったんだ。口数が少なくて、静かで、かわいいから、誤解していた。
「・・・あ、ごめん」。感心しているぼくが呆然として見えたのか、ハヤシさんが我に返ったみたいに謝ってきた。
「ぼくこそ、ごめんね。色々きいちゃって」。
「わたし、今日、貧血なの」。
「そうなんだ」。
「・・・びっくりしたでしょう?」。
「え?」。
「わたし、結構きついこと云っちゃうの。それで泣かせちゃうの。だから本を読んでいるのかも」。
「うん。確かにちょっとびっくりしたけど、ぼくはおもしろいと思う」。
 ハヤシさんがぴくりと反応した。
「たくさん話してみたいから、今朝は早めに来たんだ」。
 正直に話すとハヤシさんは伏せた本を立ててその陰に顔を隠した。
「どうしたの?」。
「こっち見ないで」。
「ハヤシさん?」。
「だから、顔見ないでってば!」。
 立てていた本がまた勢いよく倒される。
 不幸だったのはその角が落ちる場所にちょうどぼくの手があったことだった。

「剥けてる」。
 ぎゅっと目を瞑って体をこわばらせていると、ヴァン・リーの声が耳元で囁いた。
「え、な、なに?」。
「ここ、皮が剥けている」。
 白い指が触れてきたのはぼくの左手の甲だった。転んだんだよ、とぼくはハヤシさんの赤く染まった顔を思い出しながら嘘を吐く。悪気は無かった。ハヤシさんに悪気は無かったんだし、あの日を境に話せるようにもなったから幸運だったんだ。
 それより。
 目を開けたぼくはヴァン・リーの姿をまともに視界に入れることになってしまいどきどきした。
 初めて出会った時、彼は全身黒ずくめの服装で立っていた。この季節に手袋まではめているというのだから徹底した日焼け対策だ。日傘まで携えていた。お母さんだってそこまでしない。深くかぶった帽子の下から弱った目がぼくを見下ろしていて、お母さんよりも高い位置からぼくの名前を呼んだ。よろしく、と彼が手を差し出した拍子、上着に隠されていた髪が一束、肩から腕を流れてきた。プラチナ。ぼくの名前の色だ。ようこそ。ぼくはヴァンの手を握り返す。
「早く云えばいい」。ヴァン・リーはぼくの手を取ると皮が剥けた部分を舌先で舐めた。見る間に周りの皮膚と変わらなくなる。
「この程度ならすぐに治せた」。
 ヴァンの唾液に高い治癒作用があることは教えられていた。そしてそれが、血の相性が合うことが認められ登録されたパートナーにしか応用されないということも。ヴァン・リーにとってのぼくだ。
 シーツの上で微かに身を捩らせるとヴァン・リーが笑った。
「なんだ、銀。これからすることが恐いのか」。
 憎まれ口をたたく余裕もないぼくは無言のまま素直に頷く。
「痛くはない」。
 もう幾度となく請け負ってくれはするが、だからって恐怖は消えない。注射や歯医者は平気だ。だけどそれとこれとは別だ。人間、いや、ヴァンの歯で首の皮に穴を開けられる。確か首には大切な太い血管が通っているんじゃなかったっけ。ちゃんと塞がるんだろうか。塞がってくれないと、困る。
「・・・ねえ、電気」。
「何だ?」。
「電気消そうよ」。
「何故だ。見えない」。
「見たくないんだ」。
「おれは見たい」。
「ぼくは見たくない」。
「じゃあ目を閉じていればいいだろう」。
「閉じてたって途中で開けちゃうかもしれないだろ!」。
「・・・まったく手のかかるやつだ」。
 呆れた声に萎縮するぼくの瞼の上に、白い掌があてがわれた。
「わっ」。
 冷たい、と抗議する声は途中でくぐもる。鼻孔を香りがくすぐる。滑らかなものが頬に触れる。ヴァン・リーの髪だ。ぼくは縋るように手を伸ばした。大きな背中がそこにあって、突き放すつもりが引き寄せていた。顎をそらされる。右を向かされる。無防備に晒した左の首筋を温かいものがなぞる。
「呼吸を止めるな。死ぬぞ」。
 ヴァン・リーの短い言葉が笑いを含んで感じられる。だって、と抗議するぼくの声は我ながら情けないほどふるえてか細い。脚の間にヴァン・リーが体を割り込ませてくる。力が抜けて拒むこともできない。それに、ヴァン・リーの低体温が次第に心地よく感じられてくる。もう手放すことはできなかった。
 ぼくはふと、どうしてベッドなんだろうと思った。
 尖った歯から無意識に逃げようとして体が反れるが、ヴァン・リーの舌はその動きを追いかけてくる。これだけの体格差があってぼくの抵抗が実を結ぶはずはなかった。
「いま何しているの」。
「慣らしている。銀がおれを怖がらないように」。
 相変わらず視界は覆われて顔は分からないけれど、ヴァン・リーはぼくを嘲笑してなどいなかった。温かい舌で首筋を舐めて、ぼくの体温だけを取り込もうとしているみたいだった。だけどそれだけじゃ満腹になれないことは分かっている。
 ぼくは覚悟を決めた。
 視界を遮る白い手を握ると光を取り込んだ。
 天井に貼った銀河図が飛び込んでくる。視線を横へずらしていくとヴァン・リーの顔があった。逆光で分かりづらいけれど群青色の瞳が、ぼくの輪郭を映している。ぼくは自分自身へ向けるように笑いかけると、(まあほとんど虚勢だったんだけど)、リーの頬に触れた。
「もうだいじょうぶだよ、リー」。
 初めて穿たれる瞬間は、さすがにびくっとしてしまったけれど、案じたほど痛くは無かった。唾液を塗り込めつつ吸血してくれるからだろう。他のヴァンを知らないけれど、リーは上手に吸血するほうなんじゃないだろうか。自分の体から力が抜けていくのが分かる。それに呼応するようにリーが身を沈めてくる。たまの息継ぎが、神経を集中させている場所に吐く息をあてるから、ぼくの体は微熱を帯びる。リーの肌はあいかわらず冷たいままで、接触のたびに驚く。
「ねえ、どうなの?」。
 少し余裕が出てくればそんな言葉も口から出てくる。
「濃い。若いからな」。
「血に濃さってあるの」。
「あるさ」。
 リーはそれだけ云うと会話に割く時間ももどかしいように再びぼくの首筋に顔を埋めた。
 血に濃い薄いの違いがあることを知っているということはリーは以前ぼく以外の誰かの血を飲んだことがあるんだろうか。
 きっと、あるんだろう。
 長生きなんだもの。
 そうでなきゃ、ぼくに出会うまで生きてこられなかったんだものね。
 色々と考えているうちにぼくは眠くなってくる。ああ、だから最初からベットなのか。移動の手間が省けるや、このまま寝てしまえるのなら気が楽だ。でも、夜じゃないと困るな。朝は学校に行かなくちゃいけないから。リーと違ってぼくはまだ何も知らない子どもだし。勉強をしなくちゃならない。
「リー」。
「うん?」。
「ぼく、もう、寝ると思う」。
「ああ、分かった」。
 そう答えておきながらリーがぼくを解放する気配はない。このまま食べられちゃうんじゃなかろうか。でも、悪くないかもな。少しだけ痛くて、こんなに気持ちいいなら。
 ぼくは、死ぬことが怖いと思っている。
 誰かが死ぬのも怖いし、自分が死ぬのも怖い。だけどそれはいつかくること。
 でも、いま気づいた。
 もし死ぬことが、今のぼくと同じで、少しだけ痛くてあとはもう気持ちいいことなのだとしたら、もしそうだとみんなが分かったら、それでも生きていたいかな。生きていたいと、思えるのかな。何が引き留めているんだろう。何がこちらに居させるんだろう。ずっとじゃないのに。いずれいなくなるのに。
 ぼくは眠い。
 リーに吸血されながら眠りに落ちていく。
 それが何よりも好きな瞬間だと自覚するのに、回数は要しなかった。ぼくは理想の死を迎えた老人みたいに、もう目覚めないで済むことが分かった誰かみたいに、許されたみたいにこの意識に幕を引こう。
 そうすればぼくのつくりだしたこの世界も、すべて終わるよ。
 きっと幸せに、そして永遠に終わるよ。

111016
ギン、少年期