シャツのボタンを留め終え、昨夜選んでおいたネクタイを締める。
 鏡越しにうっかり目が合ったリーは訴えかけるような表情をしている。
 その理由を分かっているけれど、おれには残念、時間がないんだ。
「分かってるな、血は冷凍保存してあるもので摂れ」
「ギン・・・」
 階下から母親の声、「銀、早くしないと遅れるわよ!」
「分かってるよ」、返事して、リーがまだ不満げな目で自分を見ていることに気づく。青ざめた顔にプラチナの髪がかかって、ただでさえ不健康に見えるこのヴァンが余計に具合悪そうに見える。
「云いことがあるなら云えよ」
 喋る気力もないのか、リーは体を擦り寄せてきた。
 ここ一週間、冷凍保存した血しか与えていないからだろう、血は血でも直接肉体から摂取するのと容器から摂取するのとでは成分にこそ違いはないけれど、そう、要は摂取する側の精神的な問題なんだ。
「はあ」、おれは溜息をついて振り返る。
 光の具合によっては群青色にも見える、黒の瞳。普段は光沢のほとんどない瞳がやけに潤んでいるのはどういうことか。
 昔は見上げていた立場だけど、今じゃおれが僅かに見下ろす身長差だ。高校生になってからというもの自分でも驚くくらいに身長が伸びた。体力でも劣らない。となると態度がやや横柄になるのも、仕方ないだろ。それにおれはただの高校二年生じゃないんだ。周囲の高校生が学ぶ内容はとうに終え、今は母親の勤めるラボラトリーで助手を務めている。
「そんなにおれから欲しいの」
 わざと呆れたように問いかけると、リーは強がって顔を背けた。しかし擦り寄らせた体は位置をずれない。子供のように扱われることを嫌うのだ。まるでだらしないもののように対処されることが。
(ああ、でもこんなになって)。
 あの頃と変わらぬ長さの銀髪が、タオルケットを羽織った肩を滑り落ちる。ヴァンの髪は伸びない。切っても切っても翌朝には切る前と同じ長さに達している。これはそれぞれのヴァンによって違う。短い髪のヴァンもいれば、リーのように腰まで届く長い髪のヴァンもいる。もしも髪の毛が一種の資源として有効活用される日がきたときには、これもまた立派な研究対象だよな、などといった考えが脳裏をかすめる。今、ラボラトリーはまったく別のことを研究しているけれど。もしも、だ。もしもの話題。
 母親が呼ぶ声。
 腕時計が出発の時刻一分前を指し示す。
「素直になれよ」
 舌打ちしてリーの髪を掴む。抵抗のそぶりを見せるリーだが、こちらがネクタイを緩めて首筋を出すとおとなしくなった。間近で唾をのむ音が聞こえる。
「ほら、さっさとしないともう行っちゃうぞ。今朝もおあずけで良いのか?」
 右耳に囁きかけるや否や、尖った歯が首筋に食い込んできた。痛みはない。ヴァンの唾液には即効の治癒効果があるからだ。それに、昔から知っている感覚だ。予想できている痛みはもはや痛みではない。皮膚が慣れている。
「あと、四十五秒」
 リーの背側にまわした腕の時計を確かめる。吸引する力が強くなり、不覚にも背を震えが走った。
「貪欲」
「う、るさ・・・そ、それはお前が急かすから、だ」
「おいおい、喋ってる暇はないんじゃないかな?」
 悔しそうに歯を立ててくるリー。
 おれは首を傾げ、リーが吸血しやすいようはからう。
「三十秒」
 この辺りから眠気が襲ってくる。だけどそれも把握されたルール。下唇をかみしめてやり過ごした。
 二十秒、と告げるとリーは顔を離し、もう片側の首筋に歯をあてた。鎖骨の下のくぼみを熱い吐息がかすめた。目下を通過した顔には恍惚とした表情が浮かんでいた。よっぽど血に飢えていたらしい。
 ちょっと、いじめすぎただろうか。
「九、八、七、」
 カウントを始めるとリーの手が名残惜しそうに制服を掴む。
「六、五、四、・・・リー、皺になる」
 その手をおれは緩めさせる。
「三、二、一、」
 はい終了、とリーを突き飛ばしたおれは鞄を持つと部屋を出かけた。
「銀!」
 呼び止められ仕方なく振り返ると、リーはもう違う方向を見ていた。
 はあ。なんなんだ。
「何。時間がないんだ」
「帰ってきたら、パズルをしよう」
 パズル?
 何を云い出すかと思えば。
「無意味な遊びに付き合ってる暇はないんだよ。じゃあな、行ってくる」
 おれは出がけもう一度だけ振り返りたくなったがそれをしなかった。
 ラボラトリーへ行かなければ。
 おれはヴァンパイアと暮らしている。




ヴァンパイアをいじめる




 中学を早期卒業したおれは母さんの務める機関の付属高校に入学した。合格の通知があったとき、母さんは飛び上がって喜んだ。自分が時間をかけて進めてきたパンドラ・プロジェクトに息子が興味を示し、それに携わることを進路に据えたことがうれしくて仕方なかったようだ。父さんはあんまり乗り気じゃなかったけれど、自分で選んだ道だから後悔はしていない。
 付属高校には各校から選りすぐりの秀才が集まっていた。その中でもおれは引けを取らなかった。自分で云うと嫌味なやつだと云われるかも知れないが、客観的事実と主観的事実が一致しているだけのことだ。おれは付属高校にふさわしい生徒だった。
 午前中は通常の高校生が修学する科目を学習し、午後からは付属高校独自の授業を受ける。付属高校と機関とは同じ敷地内にあり、場所を教室から実験室に移しての実技の時間だ。
「このヴァンはヴァンの耐性を試験するための実験体だ。右半身は凍結により、左半身は高熱により、細胞を壊死させてある。その回復度合いを記録しているところだ」

「やっぱ気分が悪いよな、こういうのって」
 実技の教室を出て次の教室へ向かいながら、隣を歩くハヤシさんに囁く。
 彼女はおれと同じ中学からこの付属高校に合格した女生徒だ。
「あら、あなたにしては珍しいのね。楽しんでやっているのかと思っていたわ」
「まさか」
「普段のあなたを褒めたのよ」
「そんなことするくらいだったら、たまにはおれの誘いにのってよ」
 本気で云ってみるも、ハヤシさんはくすくす笑う。
 色素の薄い髪が細い肩を滑り落ち、その様子は家にいる誰かを連想させた。すべて思い出してなんかやらない。
「あなた、変わったわ。まるで別人みたい」
「おれが?」
「うん。昔はもっと、かわいかった」
「誰だってそうだろ」
 誰だってそうだろ、ハヤシさんはおれの言葉を真似してくすくす笑った。
「ロランは最近どう」
 なんだか恥ずかしくなっていつもの話題に切り替えた。
 ハヤシさん宅のヴァンで、うちのリーとも知り合いだ。小学校の時、夜間学校で初めて会った。ロランはリーのことをとても気に入っているがリーはそれほどでもない。むしろ嫌っている。先日もハヤシさん宅へ誘ったところ断られた。他の場所だったら喜んで外出するのに。
「毎日リーに会いたがってる」
「めげないよな。ところでさ、ロランには冷凍血液を与えてあるかい」
「ええ。それがどうしたの」
「リーが冷凍血液を嫌がるんだよ。直接摂取したがる。どうしたら良いかな、と思って。たまには仕方ないなと思うけど、最近これが毎朝続くんだ。時間のない時とか本当、まいるよ」
 そう、毎朝。
 昼と夜は生活時間がずれてきているので冷凍血液を飲んでいるようだが。
「一分くらい、あげればいいじゃない」
「うん、まあ、そうなんだけどさ、」
 そうなんだけど。
 肌を滑り落ちたタオルケット。
 カーテンの隙間から差し込む朝の細い光の一筋が、白い貝殻のような肩に、癖のない銀髪を繊細に輝かせる。晴天の雪上みたいに。物欲しげに半ば開かれた口、憂えた目の潤んだ黒色を思い出し、おれは小さく溜息を吐いた。
 あんな顔、朝っぱらから見せられたくない。

 午後十一時。
 帰宅後、部屋のドアを開けたおれは中に入るのを一瞬ためらった。
 ベッドの脇に置かれたサイドテーブルの上で、手造りの投影機が部屋の壁という壁にでたらめな星座を移動させている。しかし一面の壁は窓になっており、ガラスを通過した星座は本当の夜空へのぼってもう二度と帰ってはこなかった。
 部屋の中央に丸型のクッションがあり、その上でリーが眠っている。
 ようやく動きを再開したおれは音を立てないよう中に入り、その傍に腰を下ろした。カーテンの開かれた窓から月光だけがこの部屋を淡く照らしている。リーの肌は青白く、癖のない髪はめずらしくところどころほつれていた。
 鞄をそっと下ろし、冷たい頬に掌を近づける。触れなくても冷気が伝わってくる。産毛を掠めそうなぎりぎりの位置で、おれは触れもしなかった。
 いつの間にか。
 ほんとに、いつの間にかだ。
 おれの掌はリーの顔を包めるくらいになっていて、リーの体はおれより華奢だ。
 足元に散らばっていたパズルの破片を見つけて、おれは今朝の会話を思い出す。

「無意味な遊びに付き合ってる暇はないんだよ。じゃあな、行ってくる」。

 眠っているリーを見ていると、その姿が、今日解剖したヴァンの肉体に重なった。
 リーの肩を押して仰向けにさせると、髪の毛からおれが使っているのと同じシャンプーの香りがした。
 昔からそうだ。
 おれの真似をする。おれの後ばかりついてくる。おれの血ばかり欲しがる。しかも直接欲しがる。
「ばか」、それは自分自身への言葉。
 だっておれは数時間前ハヤシさんから伝授された方法をもう忘れてしまったんだ。
「ただいま、リー」
 目覚めてももうどうしようもないようにって戒めておいた。
 投影機のオルゴールが鳴りやんでも、リーは瞼を開けなかったけれど。
 けれど。
 この手がその肌に触れるたびに瞼が痙攣したこと、おれが気づかないわけはなかったし、おれが気づいたことに気づかないってほど、お前だってばかじゃないよな。分かっていたよな。同罪の共犯だよな。な、ヴァン・リー?

080609
ギン、青年期