おれがラボラトリーに就職してから十年の歳月が流れた。
 街も変容した。日光に弱いヴァンが気軽に出歩けるようにとアーケードが増え、至る所に血液の自動販売機が設置された。商品となる血液はボランティアで集められ、自動販売機に入る前にはラボラトリーの検査が入る。青白い肌を持つヴァンのための専門ファッションブランドが登場し、映画館ではヴァンと人間の間の友情や恋愛を描いた作品が話題を呼ぶ。実際に結婚するカップルもいる。とは云え人間とヴァンとの間に子供ができた例はない。彼等はそのことを承知で結婚するか、養子をもらうこともある。
 ヴァンだってもとは人間から派生した変異種だ。雌雄は分別され生殖機能は正常に備わっており、構造的にも役割的にも人間と違うところはない。しかし人間との間に子孫を残すことはできないのだ。それは体外受精を行ったところで同じ結果だ。
 今日も顕微鏡をのぞいてむなしさを覚える。もしかすると答えはないのかも知れない、とやけになることもある。
「はあ。地味だ」
 おれは自分より年上の助手に研究室を任せ、用事を思い出した、と早退した。




ヴァンパイアと出かける




 自分でもどうしてこんな気を起こしたのか分からない。
 隣を歩くリーは久しぶり、そう、それこそ一か月ぶりくらいに連れだって買い物することになったので御機嫌だ。いつもならおれに半歩遅れてついてくるぐらいしかできないところを、今日は逆で半歩先を歩いている。
 ショーウインドウに映った自分のスーツ姿を見て、たまに訪れる、ある憂鬱に支配される。
 肉体が先走る、ということに関して。
 いつも心は置いてけぼりだ。一見伴った心身は実は不一致の連続で、とくに心のほうが気まぐれに何十年も遡ったり、時には行方不明になったりする。残されたからっぽの自分は、廃墟の壁をつたう植物のように仕方なく成長する体をもてあまして、その気まぐれの気が元に収まるのを待つしかないのだ。
 待つしか。
 はあ、と溜息を吐くと前方のリーが振り返った。
「何だ、辛気臭い顔だな。おれと一緒にいて楽しくないのか」
 つばの広い帽子の下から群青色の瞳が睨みを利かせる。おれはその姿に追いついてわざとらしく肩に腕を置いた。当然、ものの数秒で振り払われた。
「リーは、ないんだろうな。こういうの。時間がいっぱいあるもんなあ。もしかすると人間の肉体って異常に発育が良いんじゃないだろうか。お前は健全だな、リー。ヴァンが長命なんでなくて人間が薄命なんだ」
 断片的にも何となく察したらしいリーは帽子の下で何の感情の表現でもなく、ただ純粋な瞬きをした。
「仕事、きついのか」
「べつに」
 いよいよつまらない気分になったおれを叱責するでも激励するでもなくリーは、ぼうっと立っていた。
 人は流れているのに二人は立ち止まって、これじゃあどちらかがわがままを云っているみたいだ。たぶん、おれが。
 二十代にしてヴァン・ラボラトリーの研究者。母親はパンドラ・プロジェクトメンバー内唯一の女性。雑誌やテレビの取材を受けることもある。これでおれはちょっとした有名人なのだ。
「・・・ギン」。  長袖のリーがおれの頬に触れようとしてやめた。
 けれどおれが身構えたことに気づいて、掲げた手をどうしようもなくなって、ぱん、と打った。
「な、いきなり何すんだ、リー!」
「銀がいつまでも浮かない顔をしているからだ。誘い出しておいてそういう態度は許せない。 ブラッディ・カフェを出たところまでは調子良かったのに、突然どうしたんだ」
「こっちにもいろいろあんだよ。てか、それくらいで殴ることないだろ」
「殴ってなどない」
「殴っただろ」
「・・・打っただけだ」
 くるりと背を向けた拍子にリーの髪からいつものシャンプーの香りがした。
「ああ、そういう態度ね。だったら云わせてもらうけどな、リー。お前のほうこそその態度改めたほうが良いぜ」
「おれは今日のお前と違っていつも通りだ」
「ああ、そうだな。だから根本的なこと云ってんの」
「何故そこまで干渉されなくてはならない」
 リーのペースが早まるのでおれも歩幅を広くして追いかける。
 やがて駆け足になりながら気づけばアーケードをそれて路地裏に入り込んでいた。
 何かに躓いてよろめいたリーの腕を後ろから掴み、そのまま壁に押し付けた。
「最近ロランと会っているってな」
 それが何だ、とリーが身をよじるのを抑え付けた。顔を隠す帽子を剥ぎ取ると薄暗い路地で眩しそうな顔をする。
「ごめんな」
 リーがそむけた顔に平手打ちを喰らわせた。
「でもこれでおあいこなんだからな」
 だからこれからはおれの身勝手なんだ、と宣言し、心を置いて先走る体を寄せた。
 いちばん最初にこういうことをしたのは高校二年生の時だ。
「銀のことを、嫌いになるぞ」
 きつく目をつむったリーが絞り出すように云うも関係しない。そもそもおれの心がおれの体に関係していないんだ。
 響くわけは、ないだろ。
「ばか云え。好きだろ」
 そういった予感がなかったわけはないだろう。だからどんなふうに云われても嘘にしか聞こえない。
 両方の肩に置かれたリーの肘の一つずつが儚さを訴えている。
 儚さ、何の。
 無情になりたい。
 けれど、無情になりたいなどと願っているうちは感情的な生き物であることをみすみす証明しているんだ。

 仕事疲れた、とおれは初めて本音を零した。
 ふと眼を上げると剥がれおちそうなポスターがあった。
(救いのないことがせめてもの救いだ)。
 そのようなことが書いてあった。
「何を見ているのだ」、おれの目線の先を辿って首をひねろうとするリーを、今度はやさしく封じ込めた。
「余計に気になるぞ」
「分かった、分かった」
「何を見ているのだ」
 顎の下でうごめく頭からはやはり変わらないにおいがした。何のにおいかを帰宅して確かめようと思う。
 うん、もう帰ろうと思う。
 そう云うとリーは声を出さずに頷いた。
 汗ばんだ皮膚に命の普遍を感じた。長短で優劣はつかないこと。意味のないことを議論しても意味のないこと。

 リー。
 その名前を呼ぶと腕の中で反応する。
 冷たくて気持ちいいんだ。
 温度にはちょっと、食傷気味なんだよ。
 お前にはずっと、分からないだろうけど。

080611