若さ。
 若さを主張する物は何だろう。記憶力、集中力、などといった勉強に関する能力を挙げる人もいれば、性欲、食欲、といった本能の種類を挙げる人もいるだろう。あるいはそれは感受性といった感情の起伏に関するものだったり、もっと分かりやすく身体上の能力や外見かも知れない。答えは人それぞれだ。同じ人間によっても、日によって、時間によってそれぞれだ。

 枕元で鳴っているアラーム時計を手繰り寄せたおれの指にプラチナの髪が絡まっている。
「・・・おい、リー」
 反応は無い。ぐっすり眠っているんだろう、さっきまでのおれみたいに。すぐ頭上でアラームが鳴っていたって目覚めやしない。
 命の長さに余裕があるとこういうところの緊張感まで無くなるのか。
 おれは時計を置き、空いた手でリーの頬と髪の間に手を入れた。冷たいはずの肌が少しあたたかい。頬に色は無く、眉毛も睫毛も体毛はすべてプラチナだ。初めてリーを見た時にハヤシさんが感動していたように、リーは綺麗だ。
 体勢を変えようとおれがシーツの中で脚を動かすと、目の前でリーの口が開いた。見た目の薄い割に実は柔らかな唇から尖った犬歯がのぞく。大好きな血を吸う夢でも見ているんだろう。
 あるいはそろそろ目覚めるだろうかと思って体を固くしたおれは、どうしてそこまで気を遣ってる、と自分自身に問いかけ、がばりと起き上がった。
 そして後悔。
 こういう部屋にはどうしてかいつも鏡がある。窓より大きな鏡だ。おれは目覚めて早々に自分の現状を見せ付けられることになった。
 路地裏の通りに面した安宿。
 泊まるのは旅人。では無く。では無くて、
「・・・銀。痛いぞ」
 頭を抱えていたおれは、その声に振り返った。
 指にリーの髪を絡めたままだったことに気づく。後悔に悶えるおれが悪夢から逃れる子供みたく体を前後に揺らす度、引っ張られて痛かったことだろう。
「ああ、ごめん」
 寝起きのリーに監視されながら丁寧にプラチナをほどいたおれは再び頭を抱える。
「何を揺れているのだ、銀。そんなに頭が痛いか」
「・・・会議の予定だった」
「行けば良い」
「・・・もう終わったんだよ」
「じゃあ仕方無いな。今さら行ったところで無断欠席を責められるだけだから時間を置いたほうが良い」
 お前が助言するな。
 そう云うつもりで振り返ったおれは、枕の上に散らばったプラチナの髪、その中にある青白い顔に目を留めて気力を失った。
 ずるずると項垂れ、ようやく気づいたカーテンの隙間をぴっちりと閉める。
 首筋にリーの手が伸びてきた。
「銀、」
 こういう声を出す時のリーが欲しい物。おれはそれをよく知っていて、しばらく意地悪に躊躇ったり拒否したりした後でも結局リーはそれを手に入れる。
 観念したおれは再び枕に突っ伏し、時計をストップウォッチモードに切り替える。
「・・・さっさとしろ」、溜息のようなおれの合図に重なるようにリーが耳の下に唇を寄せる。牙より先に息が触れ、思わず漏れそうになる声を堪えたら鼻にかかった。 ふん、とリーが笑うのが聞こえて一分のところを三十秒に減らしてやる。
「お前さ。シャンプー、何使ってんだ」
 三十秒経過後、首元から顔を離したリーは手の甲で口元を拭い、答えた。
「銀の家にある物だ。何故だ」
「いや、いいにおいだなと思って」
 気を引き締めておかないとこういうことを云う。無防備な体で吸血されるとこんなにもヤワだ。
 云った後でおれは顔を引き締めたが手遅れだった。
 リーは嬉しそうにしている。
「銀、もう一分間与えろ。三十秒じゃ足りない」
「・・・調子に乗んじゃねえ、この吸血中毒め」
 口ではそう云いながらもおれの手はプラチナの髪を指に絡ませ、引き寄せていた。無言の承諾を了解したリーはこの世のものとは思えない微笑を浮かべるのだが、目を閉じたおれにはもう見えない。




ヴァンパイアと寝坊する




 若さを象徴する物、それは「老い」だ。
 おれは、そう思う。

 翌朝になってもまだ痛む腰を庇うように歩いていたらハヤシさんに「先日の議事録、デスクに置いておいたから。あ。あと私、昨日の会議で昇進が決まったの」と冷たく突き放すような口調で云われてしまった。
(くそ、リーのやつ)。
 怒りの矛先は自然、今頃家のソファでタオルケットにくるまり映画観賞でもしているであろう相手に向かう。
 体力の回復が早い相手は加減を知らないから厄介だ。それを忘れていたおれにも落ち度はあるが。
 研究室に戻ると年上の助手がコンピューターに何かを打ち込んでいるところだったがおれの姿を見るとぱっと顔を輝かせ椅子から立ち上がる。
「おめでとうございます」
「・・・何が」
 デスクを見ると確かに議事録が置いてあった。ぺらぺらと中をめくってみるが真新しい事項は何も無い。各研究室の先月の成果報告と今月の目処について。その他、実験用として使えるヴァンの個体数。今月は、十四体だ。
「何しらばっくれてるんですか、もう。新プロジェクトのリーダーに任命されたんですよ、おめでたいじゃないですか」
 助手の言葉におれは議事録から顔を上げる。
「・・・新プロジェクト?」
「そうです。ヴァンの細胞で人間の移植用臓器を作り上げるプロジェクトです。あの、もしかしてまだドクター・セノオに会われていらっしゃらない?」
 助手に議事録を押し付けたおれはドクター・セノオの研究室へ向かった。

 ドクター・セノオ。
 彼女の研究室は他の研究室と異なり、独立した一つの棟になっている。
 入口で声紋と網膜識別を通過したおれはエレベーターで彼女の居場所に直行する。ほとんど音も無く最上階を目指す箱の中でおれは数十秒うろうろ歩き回った。
 新プロジェクトのリーダー。
 承諾した覚えも無ければ、そんなプロジェクトが設立に向かっていたことさえ知らない。
「・・・冗談じゃない」
 チン、と音がしてエレベーターが止まる。扉が開いた先は全面ガラス張りの広い部屋となっている。家具はほとんど無く、真正面にシルバーのデスクが置かれているのみだ。
 彼女は、いた。
 おれが来ることはあらかじめ入口の監視カメラで見知っていたのだろう、驚いた様子も無く招き入れる。
 チン、と背後でエレベーターの扉が閉まる音を聞きながらおれは大股でデスクに近づいた。
「おれは、聞いてない」。
 ここへ来るまでに頭の中を整理してきたつもりだったが第一声はそれだった。
「私が任命したの」
「そんなこと分かってる。任命権を持っているのはあなただけだ。どうしておれに何の相談も無かったんだ」
「だって、拒否したところでいずれあなたはそれをしなくちゃならないでしょう? それならどうして相談が必要?」
「・・・。・・・パンドラ・プロジェクトは」、おれは落ち着いた声で質問した。
「もちろん継続させる。あなたが抜けても補充者はすでに決まっているから心配要らないわ」
「それで。新しいプロジェクトの内容は」
「後日発表会議を設けているからそこで詳細は説明する」
「どうしておれを任命する?」
「ふさわしいからよ。外科的なことが多いの。ヴァン個体も今より多く発注できる。今後医療組織との繋がりも重要になってくるから、接待も増える。あなたは社交的だし、対人関係にも心配が無いわ」
「おれは外科は不得意だ。あなたはそれを知ってる。他に理由があるはずだ」
 しばらく沈黙があった。
 ガラスの向こうの空を旅客機が横切る。
 それが視界の端に消える頃、彼女が口を開く。
「分かっているでしょう、リーのことよ」
 おれの体は一瞬で冷たくなった。全身は硬直しているのに指先が震えている。昨日そこに絡まっていたプラチナの感触。痛い。そう云っておれを見上げてくる群青の瞳。おれは長い瞬きの間にそのイメージを何とか別の場所へと押しやった。
「リーが、どうだと?」
 すでに分かっていることを恐怖で言葉にできないおれに一瞬彼女は哀れむような目を向けた。
「リーは、長生きし過ぎたわ」
 そう。
 分かっている。
 リーは確かに長生きし過ぎたのだ。
「世論がいかに人間とヴァンとの共生を認めていてもね、ここは違うの。世の中とは違うの。誰だって哀しい思いを乗り越えてきてるの。あなただけ特別扱いすることは、できない」
 彼女の云い分はもっともだった。
 ここはラボラトリーだ。
 おれはすでに一度、見逃してもらっている。
 まだ子供だったおれは泣き喚いて反対した。
実験には他のヴァンを使えば良い、リーだけは駄目だ、リーを連れて行かないで、だってリーは、リーは大切な家族だから。
 当時のクラスメイトのほとんどが一緒に暮らしていたヴァンを献体として差し出した経験があるということをおれが知ったのは、その年の夏だった。
「・・・母さん」
 ドクター・セノオと、と訂正されるかと思ったが彼女は頷いた。
「もしかして、立場が悪くなっている?」
 その質問に彼女は首を振った。
「いいえ。あなたよ。銀。あなたが試されているの」

 来る時とは対照的に、研究棟を出てからのおれの足取りはひどく鈍い。
 ぼんやりと研究室を出てきたから発表会議の日時を訊くのを忘れた。
 おれは人工芝の広場に面したベンチに腰掛けた。
(だめだ)。
 幼いおれが首を振る。
 リーを死なせることだ、いや、殺すことだ。
(だけど)。
 赤い服を着たおれが囁く。
(だけどこれは選ぶことではないんじゃないか?)。
 何が、と訊ねる。
(思い入れが強い分、嫉妬も強い。ただの嫉妬なら無視できても、ほら、この場所を見ろよ)。
 おれは小さなベンチから広い研究所内を見渡す。
 白い棟。
 歩き回る白衣の研究員達。
 新たに「納品」されるヴァンの体。
 見上げると空は四角い。
 人間が作り上げてきたもの。
 ドクター・セノオの部屋で見たのとは違う旅客機が横切る。
 それが視界の端に見えなくなってもおれは上を向き続けた。
 薄く開けた口から声が漏れる。
「・・・ヴァン・リー」。
 こめかみをまっすぐに雫がこぼれた。
 おれの世界には色が無い。
 流れる涙は透明だ。

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