仕事を終えて帰宅する頃、日付はすでに変わっていた。
 リビングのテーブルには手の付けられることの無かった夕食がラップをかけられている。皿には手を付けず冷蔵庫を開ける。ビールを一本持って部屋へ上がった。
ソファの上でリーが横たわっている。長い髪が流れるように床に垂れ、タオルが滑り落ちていた。昨夜シャワーを浴びた後、ろくに乾かさないで寝たことが窺える。
「・・・ったく」
 おれが朝帰りなのは誰の所為だ。
 一晩中悩んでんのは誰のことだ。
 叩き起こしてそうぶちまけたい衝動に駆られたがぐっと堪える。仕事きついのか。そう云うリーに同情されるのがオチだ。
 落ちていたタオルを拾い上げたおれはふとリーが手にしている物に気づいて中腰の姿勢のまま固まった。




ヴァンパイアに訴える




 意図的に当てられるライトの明るさから逃れるよう顔をそむけたリーは目を開けて主人の帰宅を確認した。
「・・・銀?」
 ソファから起き上がろうとして異変に気づく。
「これは何だ。取れ」
 リーの両手は頭上でまとめられている。もがいたところで乾いたタオルに皮膚が擦れて血を滲ませるくらいしかできないはずだ。それでも両手の戒めを解こうと身を捩るリーの顔におれはデスクから引っ張ってきたライトを当てた。火を恐がる獣みたいに、短い呻き声と共にリーが顔を背ける。
「眩しいか。眩しいよなあ」
 ドクター・セノオの一人息子であるおれほどヴァンのいじめ方を知っている男も少ないだろう。
 おれはリーの髪を鷲掴みにすると顔を動かせなくなるほどライトの光にさらした。
「や、めてくれ」
 ようやく言葉の使い方を改めたところでその懇願にも反応してやらない。
 おれはしばらくリーが苦しむ様子を眺めた後でライト本体を引っ張った。コンセントが抜け落ち、ようやく光から解放されたリーが体の力を抜く。
 おれはソファの横にしゃがみ込むとリーの顎を掴み、意識をはっきりさせる為にその頭を軽く揺らした。
「リー。おれは夜勤明けでイライラしてる。回りくどいことは面倒だから率直に云う。昨日、ドクター・セノオからリーを献体として差し出すよう暗に云われた。新プロジェクトのリーダー位と引き換えだ。おれはまだ答えを出していないが彼女はその気でいる。おそらく彼女の考える通りに現実は進むだろう。だけどおれはなんとかして妨害したい。つまりリーを渡したくない」
 おれは一旦言葉を切る。
 リーは青く見える目を見開いて黙っている。光に攻められて色調が変化したのか、おれの目もまたさっきの光でやられたのか。
「色々考えたんだが、おれはリーを渡したくない。リーダーにはならない。彼女に何を云われても気は変わらない。だけど、もしリーに意見があるなら云ってくれ。リーはどうしたい」
 ばかげている。
 おれは、どうするつもりだ。
 もしリーが「そんなの嫌に決まっているだろう」と云ってきたら。
 リーは静かにおれを見つめ何度か瞬きした後、掠れた声で告げた。
「・・・銀。おれは、使命を果たしたい」。
 すぐそばから息を呑む音が聞こえたと思ったら、それは自分からだった。
 上着を脱ぎ、ビールに口をつける。徹夜明けで空っぽの胃には相当きつかったが最悪の気分に似つかわしい最悪の体調になるだけだ。もともと好きな飲み物では無かったが今は他に何も代わりが無い。
 おれがネクタイを緩めていると、これから行われる行為の内容にようやく気づいたリーが不自由な手を擦り合わせながら逃げようともがいた。もがく内にソファから転がり落ちたリーの髪を掴み仰向けに押さえつける。
「分かったよ、リー。お前がそう云うならそうしてやる。・・・だってロランも、そうしたんだもんな?」
 わざと嘲笑を加えたその言葉にリーが目を細め、おれは確信した。
 寝ているリーが握り締めていた物、それはロランの持ち物だった。シルバーのネックレス。飼い主のハヤシさんとおそろいだ。二人は肌身離さずそれを身に付けてきた。しかし昨日おれが会ったハヤシさんはそれをしていなかった。
『私、昨日の会議で昇進が決まったの』。
 聞いた時は言葉通りに受け止めるだけだったが、おそらくロランは献体されたのだろう。それもつい最近のことだ。
 おれはハヤシさんの態度が冷たく感じられた理由を自分に都合良く解釈していたが、もしかするとハヤシさんはあの時とても弱っていたのかも知れない。
 そして、ロランのネックレスを握り締めて眠るリー。
 かまをかけたらあっさりと認めた。
 おれを睨んでくるこの青い目が証拠だ。
「そっか。リーのことで悩んで、一晩損した。責任は、取れよな」
 我ながら無茶苦茶なことを云っている。分かっちゃいるが頭がひどく痛んで言葉はとても感情的だ。
 自分からリーに首筋を押し付ける。
 こんなのは嫌だ、と頑なに拒んでいたリーだったがそういつまでも断り続けることなどできない。ヴァンの吸血行為は人間の三大欲求に匹敵する。
 言葉にならない声を上げてリーが歯を立てる。両手を縛られて体が思うように動かせないからおれが計らって体をずらしてやる。まだ目の開かない子猫が母猫の乳に辿り着いたように、リーが勢い良く吸血を始めた。一週間以上おあずけを食らってでもいたように必死で血を吸い取ろうとする。呼吸の為に口を離すのも惜しいようで鼻から息が漏れる。それが耳裏を刺激しておれはなんとか立てていた肘を折った。起き上がろうとするが力が入らず全身が大きな震えに襲われているかのようにがくがくと揺れ出す。
 歯を食いしばり、下から襲ってくる嫌な感覚をやり過ごす。
 が、ヴァンの吸血行為に匹敵にする人間の三大欲求はそう簡単に制御できるものでない。特に、徹夜明けで空っぽの胃にはビールが入り、目の前におれの平穏を掻き乱す相手が無防備な状態で憎まれ口ばかり叩く以上は。
リーが「これをほどけ」と手首で床を叩く。おれは無意識に首を横に振った。
「ほどけ、銀。どうしてこんな物をするのだ。痛くて不愉快だ」
「もしリーが献体を承諾したら、誘拐するつもりだった」
 吐息の合間におれが答える。
 一瞬リーの動きが止まって、
「・・・ふん。莫迦なのだな、銀は」
 囁きと共に再開した。
「ばか、って、云う、な・・・」
「いいや、莫迦だ」
 治癒力に伴う睡眠誘発作用。
 ヴァンの唾液が傷口に塗り込められ、おれは少しずつ穏やかになる。母親の腕の中で眠りに落ちる直前の赤ん坊より穏やかになって、意識を手離す。


 小学校低学年の頃だった。
 おれは友達に誘われて公園へ出るところで、母さんが連れてきた長身の男とは玄関先ですれ違った。
 春だというのに黒い長袖のシャツに黒い長ズボン。黒い傘を両手でしっかりと握り締めていた。
「あら、銀。ちょうど良かった。今日から家で一緒に暮らすことになっているヴァン・リーよ。よろしくね」
 ヴァンが家に来ることは前々から聞かされていたので「あ、この人が」という感じだった。
「どうぞよろしく」、傘の下から顔を覗かせたリーが弱ったような目で会釈する。
「太陽に弱いの」
 おれに向けてそう云った母さんはリーを急いで玄関に通した。
「あ、銀。暗くなる前には帰って来てね。今日は四人で初めての夕食だから」
 ドアが閉まった後、おれはようやく「うん」と返事する。
 プラチナの髪の目映さ、リーの肌の白さがまだ目の前でチカチカするようだった。公園で友達と会ってからもその感覚はやまず、ゲームの話をしていてもキャッチボールをしていてもずっと上の空だった。
 その年の夏、おれはリーを川に誘った。泳ぎの練習をしたかったからなのだが学校のプールも市営のプールもクラスメイトに会う確率が高い。できれば練習風景は誰にも見られたくなかったし、かと云って夜のプールに忍び込むわけにはいかない。
 暑い日だった。テレビはその夏一番の猛暑日だと伝えていた。川に着いたおれは服の下に履いてきていた水着姿になって早速練習を開始した。川の水は驚くほど冷たかった。ちょっと川上へ上れば氷の山があって、それが溶け出してきたものじゃないかと思うほど。
 練習を開始してから何時間経っただろう。平泳ぎの息継ぎが出来るようになった頃、太陽は傾きかけていた。
「ねえ、見てた? ぼくすごい上達したよ」
 水から上がったおれはリーに駆け寄り、驚いた。
「・・・ああ、見ていた。銀の泳ぎはとても上手だった」
「リー?」
 木陰でさらに日傘を持っていたのにリーの肌は赤く火照っていた。喋る合間の呼吸は速く、目も潤んでいる。ちょうど風邪で熱を出した時と同じような感じ。おれは慌てて母さんに連絡を入れ、車で迎えに来てもらった。
母さんはおれが母さんに無断でリーを連れ出したことを叱ったし、リーが途中で体調の不調を訴えなかったことも叱った。おれは罰としてリーの看病を任された。
その晩、まだ微熱を持つリーの素肌に霧吹きで水を掛けてやりながらおれは謝った。
「ごめん、リー。ぜんぜんきづかなくって。ぼく、むちゅうになってて。しなないで、リー。しなないでね」
 今思えばおかしな言葉だ。ヴァンに向かって死ぬなも何も無い。それでも当時のおれにとって生死とは自分が知っている一種類しか無く、苦しむリーを間近で見ていると余計にそれは迫って感じられた。
「ふん、この体が死んだりするものか。莫迦なのだな、銀は」
「ぼくのこときらいになった?」
「少しきらいになった」
 その言葉に当時のおれは泣きたい気持ちをぐっと堪えた。嫌われて当然だ。自分のことに夢中でリーを放ったらかしにしてしまった。それでリーの肌は赤くなってしまった。おれは霧吹きを何度も吹かせた。びしょ濡れのリーが「頼むから水を止めてくれ」と云うまで。
「誤解するな、銀。おれは最初、銀のことを実はとてもきらいだった。それが少しになった。悪くないだろう。どうしてそんなに苦しい顔をしているのだ。銀の泳ぎはとても上手だった。だから少しになった。おれは銀のことをいつか好きになれるかも知れないんだぞ」


 起床時間は昼近かった。
 普段は飲まないビールを飲んだ所為で頭は痛いが昨夜のことは皮肉にもはっきりと思い出せる。さっきまで見ていた夢の内容も。
 ソファに寝かされたおれはリーの姿を部屋の中に捜したが見当たらなかった。
 おれが溜息を吐くと同時にコップを手にしたリーが部屋に入ってくる。
「気づいたか」
「リー、おはよ・・・」
「黙って水を飲め。酒臭いから喋るな」
 おれは体を起こすと渡されたコップの中身をおとなしく飲み干す。
 空になったコップを確認したリーは自分も冷凍保存の血液を吸い始めた。
 まるで何かの飲料の宣伝のように腰に手を当てて飲んでいる。肩を滑るプラチナの髪はレースのカーテンを通して射し込む光を受け止めてきらきらと輝きを放っている。おれの視線に気づいたリーがボトルから口を離した。
「何をじろじろ見ている。気持ち悪いぞ」
 おれは苦笑した。
「気持ち悪いって、そんな」
「いや、大袈裟ではない。本当に気持ち悪いのだ」
 しかもわざとらしく一歩後ずさるリー。
「あー、悪かったな」
 おれは目を瞑った。
 もう一度眠れるかと思ったが無理なようだ。さっき飲んだ水が体を目覚めさせてしまっている。
 再び目を開けたおれはいつの間にか手の届く場所に正座しておれを見ているリーに少し吃驚した。
「銀。銀の成長はとても早い。ちょっと前までここにいたガキがもう大人のようになっている。人間は不思議だ。なあ、銀」
 そんなことを突然大真面目に語りだすリー。
 おれは手を伸ばしてリーの体を寄せた。
 直に血をもらえるのだと思って正座を崩すリーに腕を回す。
「・・・なんだ、血をくれるんじゃないのか」
「やるよ。欲しいんだろ」
「ふん、べつにそこまで欲しくは無い。さっき解凍したやつを飲んだしな」
「ごめん、もらって欲しいんだ。リーに吸ってもらわないと、錯覚なんだろうけど、体が重くて。なあ、吸ってくれよ」
「最近の銀は様子がおかしい」
 うん。
 そう、その通りだとおれも思う。
 リーの瞳におれが映る。
 だけどリーの瞳の中に映るおれの瞳に映るリーはもう遠すぎて見えない。
 逃げよう。
 おれはそう云っていた。
 リーが首を傾げる。
 おれは今度は頷いて云った。
 うん、逃げよう。それが一番だ。
 って。
 リーの歯が肌に刺さる。
 誰が相手のどんな行為だってこれほどおれを穏やかに満たせない。泣きたいほど気持ち良くはさせない。

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