「いとしい」と「かなしい」。
 同じ一文字で表すことができる、この国で。


 


ヴァンパイアと逃げる




 地下に潜ったかと思った。
 黒い鏡のようになった車窓に共犯者の横顔が映っている。おれが主犯の犯罪の。
「・・・リー。おはよう」。
 おれの挨拶に、リーは頬杖をついたまま応える。「うなされていたぞ。銀」。白い髪が月のように発光している。安全な場所でかつすぐ隣にいるというのにリーの輪郭は霧越しのようで目を擦る。視界の問題か。あるいは自分がただ寝ぼけているのかと思ったのだ。
「寝ぼけているのか。今は夜だ」。
 群青色の光彩が初めておれをまともに見る。
「なに怒ってんだよ。リー」。
「おまえには逃亡者だという自覚があるのか」。
 逃亡者。
 そう口にしてリーは自分で驚いたように一瞬だけ視線を泳がせた。
 自分達の前後左右は空席で、車両内には他に数名しかいない。彼等は仕事帰りだろうか。
 仕事。
 今、ラボラトリーはどうなっているだろう。おれの不在に最初に気づくのは誰だろう。
「あのなあ、リー。云ってるおまえも同罪だろ」。まるでおれだけが悪いみたいに。
 今は陽光が遮られているからだ、リーの髪は帽子にもフードにも遮られることなく肩を流れておりその一束が、肘掛の先端を握るおれの手の甲に垂れている。
 覗き込めば顔をそむけるのを阻んで、いつにもまして蒼ざめて見える顔に顔を寄せる。
 咄嗟に意味が理解できず仰け反るリーの髪を手繰り寄せてもう一度体を寄せさせて口元がおれの肩口に埋まるよう操った。
「飲めよ。欲しいんだろ」。
 おれが云い終わる前に尖りが食い込んでくる。小さな牙は首の皮を柔らかく穿ち、存分に吸血を済ませれば舌で塗り込む唾液で治癒を促すだろう。
 おれは半ば腰を浮かせていたが、こちらが身を引いてもリーの方から追いかけてくるのを確認し、相手の自尊心を損なわないよう静かに少しずつ座席に背をつける。リーが顔の角度を変えたがっているのを悟ったおれは顎をそらせ目を閉じた。
 景色が見えないというだけで電車はずっと止まっているかのようだ。
 青さえ届かない海底で。
 存在を否定された、産業廃棄物みたいに。
「何の夢を見ていたのだ」。
 構えば鬱陶しがるくせに放っておけば無自覚を疑うくらい顔を近づけてリーが首をかしげる。
 ほとんど意味も無く手癖のようにその髪を梳くとリーの目蓋が少し下がる。額を撫でられた猫のように。
 睫毛までプラチナの色素。それはリーを無生物めいて見せる。見慣れた今だって時々信じられなくなる。こうして体のどこかが触れていなければ。温度を感じていなければ。
 うなされていたぞ、とリーが繰り返す。
 心配してくれているのだろうか。
「・・・でも本当に心配してくれてるんだったら起こすだろう」。
「途中で起こしていいものか迷ったのだ」。
「起こせよ。どうせ夢だし」。
「夢だからだ」。
 だってそれはもう、二度と見られない夢かも知れない。
 リーが珍しく弱気だ。
 どうしたよ? ん? できるだけさりげなく頬に触れたのはリーの目が何かに追いすがる子どもの目に見えたから。
 ああ。リーの目が、じゃない。おれだ。かつての自分の目だ。
 母親からリーの献体をほのめかされ、弾かれたように椅子を立った。
 リーはだめだ。リーだけはだめだ。だって家族なんだもの。他のヴァンなんかいらない。リーを連れてかないで。リーをどうにもしないで。リーをぼくから取り上げないで。リーともっと一緒にいたいんだ。
 滅多にわがままを云わなかったおれが大声で意見を主張したことに母親は驚いていた。その隣で父親も目を丸くしていた。一瞬の沈黙。その後、母親の苦笑が漏れ、分かった分かった、とおれの強引な主張は通るのだった。長引けば長引くほどいつか必ず訪れる別れが辛くなることを知っていながら母さんがおれに対し数回の延長を認めたのは、可愛い一人息子の駄々だから、なんてもんじゃなくて、いつかそれを切り札にできることを見抜いたからかもしれない。皮肉でもなんでもなく母さんは頭がいい。だって実際その通りだったんだから。確かにおれがラボラトリーへ就職を決めた理由の一つには、リーの処遇を自分で決定できる立場を手に入れるためというのもあったことは否定できない。もちろんそればかりじゃないし、だからって誰のせいにもできない。最終決定権はいつだっておれ自身に委ねられていて、おれが選んだ選択肢だった。強制などされていない。たとえ誰かが、道中、おれの耳元で何か囁いたのだとしても。
 とにかく、あれが、おれが人生で母さんに楯突いた最初の出来事だったことは確かだ。少なくとも、おれ自身の意見で。この頭の記憶にある中で。
 そう、食事の席だった。
 おれの家では夕食だけは家族全員が揃ってから取る決まりになっていた。共働きの両親。ヴァン・ラボラトリーに勤める母さんと、それから。
 あれ?
 ふいにおれは片方のこめかみに針の先端を突きつけられたような小さな刺激を感じた。
(あれ。父さんって、どんな人だったっけ)。
 我が家の絶対権力者は間違いなく、母さんだった。リーが食べ物の好き嫌いを隠し通そうとしても見つけて叱る。一人息子の帰りが遅いのを叱る。献体をしなさいと云う。授業参観。進路相談。三者面談。関わってきたのはほとんど母さんだった。父さんもいないわけじゃなかったのに。だって、我が家の食卓のルールは家族全員が揃っていること。間違いなく四人いた。だけど思い出せない。父さんはどんな顔だっけ。どんな声だっけ。
 父さんは何をしていた人だっけ。
「・・・我ながらひどいな、おれ」。
 苦笑すれば、自分のことで笑われたと感じたのかそれとも自分のことでないことで笑ったことに対してなのかリーが眉間の皺を深くする。
「何をにやついているのだ」。
「うん? 教えない」。
 教えない、と云われば、教えろ、と素直に答えを欲しがれないリーのこと、話をそらすのは、それ自体は割と簡単だ。だけどそれをきっかけにリーが不機嫌な態度を示してくることをおれは我慢しなくてはならない。
「ふん。まったく気にならん」。吐き捨てるように云うとリーは自分の座席の背もたれに身を埋めた。夜の水面のようなガラスにさえ完全に拭いきれないそのプラチナの色素が、リーの肌や髪や明らかに拗ねた表情を映し出している。
「おまえなんかの血を吸わされたせいでもう満腹だ。今度はおれが寝る」。
 そう云い残してリーは首の後ろを探りフードを引っ張り出した。そうだ、途中で着替えたのだった。ちなみに今は何日目だろう。おれが、おれたちが、あの駅を出てから。何本かの電車を乗り継いで。二夜と同じ場所には泊まらないで。誰かに追われて逃げ惑う演技を演じながら、それはただの錯覚なんじゃないかという気もしてくる。追いかけられてもいないのに逃げて、あるはずのない場所を振り返る。立ち止まって追い付かれるのを待ったって、どこにもそんな愛はないんじゃないか、って。
 満腹。
 リーの台詞におれのお腹が鳴る。
「うるさいぞ、銀。腹の虫を黙らせろ」。
「聞きたくないなら早く寝ろよ」。
「寝る」。
 寝返りをうった拍子に、フードにおさまりきらなかったプラチナブロンドが、リーの羽織った黒いコートの上に、一筋のミルクみたいに溢れた。
 堪らなくなって手を伸ばしながら、
「おれが、起きておくからさ」。
 今度は、な。そう付け足すとリーは自分の失言にようやく気づいておれに何かいいわけをしたいのだけれど、振り返ることができず、おれの指先から自分の髪を取り戻す動作だけ。 
「・・・ありがとな。リー」。
 心なしか血色が良くなって見える耳に唇を寄せて囁く。返事がない。繰り返すと「眠くなかっただけだ」と小さな声が聞こえる。
「ううん、そのことじゃなくて」。
 そのことだけじゃ、なくて。

 電車はどこを走っているのか。
 海底を駆けて、深い森を抜けて、街を、屋根を、国境を越えて。
 いつか見上げた、天井の銀河図をおれたちは迷う方法も無くただ彷徨っている気がした。
 迷え、ない。
 もしかすると、ずっと。
 迷子になるには、自分達の行きたい場所が分かっていなければ。そこがどんな名前でどんな光景の場所なのか、誰がいて、誰といて、どんな何があるのか。分かって、いなければ。
 いとしい。
 かなしい。
 うれしい。
 こわい。
 たのしい。
 くるしい。
 感情はどれも、完全に仕切られた部屋じゃない。グラデーションを用いればすべての色が本当は繋がることができるように、程度や強弱の違いがあるだけで、元は一つなんだ。表裏、というのとも違う。多面、なのでもない。まったく別々のことじゃない。繋がる。繋がっている。
 だからおれは憚らない。
 かなしい。かなしい。かなしい。いとしい。リーに抱く感情を。
「逃げよう」。
 そう持ちかけた時、返事も首肯もせず、ただ呆れたみたいに笑っただけでリーは、おれの途方もない駄々や支離滅裂な言い分、それに付随して感じざるを得ない時々の自己嫌悪、それこそ死にたくなるような、この価値の無さをも一瞬で救った。たったあの一瞬で、その先のすべてをもう清算してしまったんだ。
 だけど旅はいつまでもは続かないだろう。いつまでも続いてしまったらそれはもう旅と呼べない。それはきっともう家路だ。
 そして二人とも分かっているだろう。
 天井に貼った銀河図。
 あれを見上げて身をゆだねれば眠れていた。あの頃と寸分変わらないリー。大人になった自分。
 ヴァン・リー。
 おまえがおれに甘いのは。
 もしかすると。
 終わらせて欲しいからなのか。
 でも。
 自惚れるな。
 おまえなら、そう云いそうだ。

 身体をゆっくりと押さえつける力。
 電車がブレーキをかけており、今まで確かに走っていたのだなと改めて思う。少し耳障りな音。それが、現実感を取り戻すための手助けをしてくれる。長い減速距離。ようやく電車が完全に止まり、扉が開く。停車駅。間もなくして車両に入ってくる数名の足音。複数。やけに速足だ。首をひねり様子を窺おうとするおれの額に銃口のようなものがつきつけられる。
「・・・え?」。
 別の銃口が、リーのフードをはらった様子が微かに視界に入る。咄嗟の事で身動きがとれない。新しい「乗客」は分かった限りで四人いた。うち二人が銃を携え、他の一人が書面を読み上げる。誰が一番偉いのかはすぐに分かった。他とは違う帽子をかぶっているからだ。目元は隠されている。
「銀」。
 聞き覚えのある声がおれを呼ぶ。静かに、諭すような声。穏やかな、声。聞き覚えはあるのに、誰だったか思い出せない。銃口と思っていたものは別の器具だったらしくさっき目覚めたばかりなのに睡眠が誘発される。
「ギン!」。
 リーが呼ぶ。おれを覗き込む表情も見える。それなのに声が聞こえなくなってくる。
 誰かが「眠らせただけだ」と告げる。触るな、とリーが跳ねのける。
 おれの耳には途切れ途切れに、言葉の断片が飛び込んでくる。珍しくリーの口数が多い。
「だめだ」。
 何が。
「ギンを」。
 おれのことか。
「いやだ」。
 どうした、リー。
 リーが、あの日のおれみたいなことを云ってる。初めておれが母さんに反抗した、あの必死さで。
 もっとはっきり聞きたいのに意識は遠ざかり、もっとちゃんと見たいのに瞼は下りてきて、もがくように伸ばした手を誰かが掴んだ感触だけ。
 リー。
 ハープの弦みたいにまっすぐ伸びておれの顔にかかるプラチナブロンドが閃光のように視界を埋め尽くす。
 そしておれは瞬時に悟る。
 分からなくていい。そう願うのに。
 知らないでいい。自分に命じるのに。
 ああ分かってしまう繋がってしまう気づいてしまう知ってしまう晒してしまう暴いてしまうおれは。
 ずっと前から平常では、なかったのかも。もう。
 ああ、このまま目なんか開けたくないな。
 だってこれはもう、二度と見られない夢かも知れない。
 混沌としながらも続いていた意識が徐々に薄れる。いずれ失う。
 リー。
 ヴァン・リー。
 たった今、おれは迷子になったよ。
 おまえがいない場所に行きたくなんかないんだと分かったから。そしてそれは、ほとんど反射的に椅子を立って感情を吐露したあの日から、一度も変わらないことだった。

111010
捕獲。