風を感じて私は目を開けようとするが、夢の中の誰かが手を引いて妨げる。半身を夢に、もう半身を現に浸したような生ぬるい居心地の悪さはかえって快楽が何かを教える。どっちつかずの状態は揺蕩うだけの漂流に近い。遭難とは違う。命の危険はそこにはない、むしろ、命を弄ぶだけの余裕がそこにある。肉体は無防備に塩水にさらされている。めくれた傷にいつ痛覚が戻ってくるか知れない。悶えるだけ悶えれば神経はもう一度麻痺するのだろうか。それとも先に狂したほうがよりまともでいられるだろうか。
 私の世界は瞬きとともに過ぎ去る。
 些細な口論をきっかけに仲違いした幼馴染に謝罪の気持ちを述べようと、顔を上げればそこに立っているのは期待した友の顔ではなく、とうに十年先の同僚だった。
 神童。
 おこがましい。
 幼く物を知らない私ではあったが、自分を称賛する周囲の声の響きの中に常に純粋な賛辞以外のものを感じ取ってはいた。耳ではなく、肌で。それこそ痛覚で。痒みとも違う、まともな感覚の一端を。 
 後になって思えばそれこそが、私でない他者が私に対して抱いていた真の感情、つまり憐憫の情に他ならなかった。しかしそれを知るに私はまだ若い。憐憫を嫉妬と取り違え、授かった能力に恩恵を感じこそすれ、それが何らかの重要なメッセージを含む警告だとは感じ取る由も無かった。
「銀」。
 思考を中断するのは誰の声か。
 乾いた風を再び感じ私はゆっくりと目を開ける。
 忽ち視覚が彼を私に伝える。
 周囲は一瞬のうちに遠ざかる。風のように。光のように。時のように。人の、気配のように。

 


ヴァンパイアと平和




 此処がどこであるかということに私はしばらく関心を払わないでいられる。
 目の前の若い男に向けて伸ばされた自分の手は、皺と血管をその皮膚の下に隠し切れずにいる。身をかがめてくるその男の背中に手をやればさらさらと、銀髪が花嫁のヴェールのように世界と二人を遮断する。
「私は色々な国を旅してきた。現実ばかりでなく、夢の世界も含め。多くの人に会い、すれ違った。老いも若いも、男も女も。だが、一度も見たことが無い。お前のように、美しい男は」。
「・・・・・・ついに耄碌したか、銀」。
 いっそ無生物めいて見えていたほどに端正な顔に初めて、表情らしい表情が浮かぶのを私は愛おしく眺める。
「リー。お前の姿は本当にいつまでも変わらないな。出会った時から」。
「おれが変わらないのは当たり前だろう」。
 比類なき美男だと云われた時よりも複雑な表情でリーは私を睨んでくる。
 はじめ漆黒かに見える瞳はプラチナブロンドに輝く髪の間から射す光を受けて輪郭を藍色に滲ませている。その輪郭から生じた色彩が瞳孔に溶け、全体は群青よりやや鮮やかな青を呈した。眉も睫毛も銀色をしている上、肌も青みを帯びた白色という、極端に色味の薄い顔立ちの中で唯一深い色彩をたたえたその瞳は、宇宙という闇に浮かぶあの飽食の入口よりも強い引力を備えて私の心をとらえる。それが瞬くなど、潤うなど、まして意思ある男に付属するものであるなど、到底思うことができない。
 さらによく見ようと体を寄せると僅かに抵抗する素振りを見せるが、完全な拒絶は示さない。それはこの永遠に若い男、ヴァン・リーが、私に対して何らかの好意を抱いているという説明にも証明にもなりえず単に私の方が彼よりも非力になったと、それほどに時は経過したのだと、苦悩の夢から覚めたばかりの私は理解するのに時間を要しなかった。
「お前はもう老いたのだ、銀」。
「間違いない」。
 私はにやりと笑って見せる。
 リーの表情も和らいだ。
「食事は」。
 私は初めて周囲の景色を確認しようと椅子の上で首をひねり、ここが海岸に面したバルコニーであることに気がつく。眼下にひしめく白い屋根の連なりはこの土地の日照時間の長さを物語る。
「リー、そこにいるお前は幻じゃあるまいな?」。
 私の膝に跨るように座っていたリーは何かを確かめるように体を離した。 
「まだ夢を見ているのか。だったら、叩き起こしてやる」。
「できればもう少し優しく」。
「おれが太陽を克服したのはお前の体がこんな椅子の上で一日の大半を過ごしていない時分のことだが」。
 忘れてしまった、と嘯いて私はリーの背中に垂れた髪に手をくぐらせる。冷たい。髪だけではない。今更ではあるが、太腿の上にあって布越しに触れ合う表皮の温度差も、死者と生者のそれではないかと思えてくる。
「食え」。
 唐突に、どこからともなく、リーが匙を差し出す。
 あまり不意打ちだったためにかえって疑問を口にすることもできず私はそれを含んだ。苦みが強い。
「美味しくはない」。
「薬だからな」。
「お前に介護される日が来ようとはな」。
 黙って食え、と次なる匙が運ばれてくる。私はしばらく素直に従うことにした。

「・・・何をにやついているのだ」。
 ようやく気付いたリーが眦をつりあげる。
「いや、これは平和だと思って」。
「平和だとにやつく奴があるか」。
「ここにある」。
「逃げたな」、リーは不満そうだ。
「本当に」、私はリーの言葉にかぶせるように続けた。
「本当に平和だ」。
 以後しばらくの間、どちらも口を利かなかった。
 リーは器が空になるまで匙を運び続けた。その間、風は一度も吹かなかった。
「リー」。
 私が椅子から立ち上がるのをリーは手伝う。支えられながら階段を下り、一階のテラスへ出る。そこには真っ赤なパラソルが広げられ、食事の準備が整っていた。席に着けば給仕が現れて曇り一つ無いグラスに水を注ぐ。まだ口の中に残る苦い薬の後味を消したくて私は呷った。温度の異なる液体が胃へ落ちていく。
「ところで私達はうまく逃げおおせたのだろうか?」。
 問いかけた時、リーは視線を魚介スープの盛られた皿の縁に往復させていた。
 打たれたように顔を上げると今度は反動のようにゆったりと静かに目を細めていく。
「・・・駄目になったのだ」。
「私達は連れ戻されたのか」。
 今ここに二人でいる安堵からだろう、忘れかけた過去を問い合わせる私の口調は、すべてを忘れずに覚えているリーにとってはさぞかし不愉快なものだったろう。それを裏付けるようにリーの顔つきは、当人が意識して鎮めようとしてもどうしようもないほどに引き攣っていく。しかしそれによって彼の美貌が損なわれるようなことはなかった。それどころか神経質そうに歪んだ眉や、切れ上がった目尻は、覆い切れずに色気さえ湛えていた。
「銀のバカ野郎め」。
「よほど悔しかったか」。
「自惚れるな」。
「分かっているよ、リー。・・・すまなかったな」。
 こちらが素直に謝罪するとリーは驚いたように目を見開いたがそれも一瞬、ただちに視線を逸らせると腕組みをしてそっぽを向いてしまった。
「リー。きみはこどもか?」。
「己より何倍も長寿の相手に向かって、きみはこどもか、とは聞いてあきれる」。
 ここで私はまた一つ重大なことを思い出した。
「母さん。そうだ、私の母さんはどうしたのだろう。もうすでに亡くなっているのだろうね」。
 事実を知りたがる私にリーは訝しげな視線を送った。
「彼女は息子であるお前に院長の座を渡した後、亡くなったのだ。数十年は前だ」。
「死因は」。
 私の追及にリーは呆然とした。
「銀、いい加減にしろ。ふざけて忘れたふりをしているのか。それとも自虐か」。
「どちらでもないつもりだが」。
 私の声が真剣なのを聞いて、リーは諦めたような溜め息とともに告げた。
「彼女は自殺だった。研究室で」。
「息子の逃亡を憂えたのだろうか」。
「知らん」。
 リーの声色は言葉通り素っ気ないものだった。私はそれ以上その件についての質問を重ねなかった。
「・・・・・・リー、」。
 私が呼ぶよりも早くリーは椅子から腰を浮かせていた。彼がこちらへ身を乗り出していた。発達した犬歯のちらちら覗く口を軽く開かせつつ迫ってくる。
 首筋に小さな痛みを覚悟していた私は、存外柔らかな感触に息を飲んだ。
「・・・・・・銀、ぎん」。
 真っ赤なパラソルが、吹き上げる潮風にあおられ小鳥のように舞い上がった。
 無力な、羽ばたき方も教わらない羽毛の塊のように容易く。
「ばか野郎めが・・・」。
 いったい何を見ていたのか。
 私は彼の若さに応えるだけの勢いも持たない。

「リー」。
 どうして。
「黙れ」。
 なあ、ヴァン・リー。
「わかった。もうなにもいわない」。

 いらないよ もう なんにも

 初潮も迎えぬうちから異性に抱かれるうぶな小娘のように、生身に与えられる愛撫、愛撫と呼ぶには味気の無い単純な接触に対し、ひたすら贅沢を甘受することだけ求める痴れ者のように、ぽうっと、その群青とは似つかぬただ真っ暗い目を見開いている男すなわち私自身。

「おまえはもう要らないと云う。銀、おまえはおれのせいで幸せな男だ」。
「何を云っている? どういう意味だ」。
 私が首を傾げると答えをはぐらかすようにリーの手が髪をかき混ぜた。
「いつの間にか全部白くなったな。おれと同じだ」。
「いや、リーの髪ほど輝かないよ」。
 その色がずっと好きだった。
 口にするとリーは裏切られたような顔をした。私が何か云う度、告げる度、褒める度、リーは傷つけられた者の顔を、いや、目をする。顔はどうにでも保てるが眼差しは嘘を吐けない。それは人間もヴァンも同じことだ。もともと人間なのだからヴァンも同じなのは当然だろう。
 この時もリーはそのような表情をして、私を見下ろしている。
「この生涯に一度きりだ。おまえみたいに、綺麗な男」。
「さっきも似たようなことを聞いたが」。
「飽きない」。
 ここへ先程の給仕が現れて私たちの様子を見やるが何食わぬ顔で前菜の皿を下げていく。代わりに次の料理が運ばれてきたのを見るとリーは私から体を離して向かいの席に座った。私の体液を吸ったことで少しは食欲が出てきたのか、食器を手にして野菜を口へ運んでいく。背景の青い海にプラチナブロンドが映えて、それを目にしているのは自分だけだという贅沢が、またも私に平和とは何かを教えて笑みを零してしまう。リーは気づいたようだがもう何も云わない。食事風景を見られていることも無視して淡々と食器を使い分けていたが、ある瞬間とうとう耐えきれなくなって手を止めると、不機嫌を隠さない瞳で私を睨み上げた。
「何を、しているのだ」。
「退屈だから遊んでいた」。
 手に持ったフォークでプラチナをすくっては散らせていた。一本一本が細く、艶のある真っ直ぐな毛がフォークの隙間を櫛の目を通るように流れ抜けて一度のひっかかりも起こさない感触はほとんど病みつきになる。
「リー。おまえは私にとっての一度きりだ」。
「今頃になって何を云っている。この耄碌男め。しつこいのだ。見るな。笑うな。おれの髪で遊ぶな」。
 言葉は辛辣だが声は力を失っていく。
 私を見るリーの瞳は今までに無い青色をしていた。常にあった群青色は輪郭へと押しやられ、油に落とした一滴の水のように明るい色が小さな二つの領域を占める。
 リー。
 名前をちゃんと呼んであげられただろうか、私は少しだけ不安になる。
 銀、私を呼ぶ声は、ちゃんと聞こえる。
 ありきたりな楽園のような光景が私の黒の瞳に描かれる。この世界の最後に見る光景が、これであってほしい。きっとこれが、最後だろう。
 ヴァン・リー。
 だとしたら、ああ、この世のものとは思えない幸福に眩暈がするに違いない。

111003
ギン、老年期。